ad libitum(アド・リブ)






1.ragtime 《シンコペーションの効いたリズムに対する名称》

 ダッフルコートの襟元から、冷たい夕暮れの風が私の身体へもぐりこんでくる。ふと目をあげると金色の銀杏の葉が、ばらばらと行き過ぎる人々の髪に降り注いでいる。子供が嬌声をあげて、落ちてくる金扇に手を伸ばす。落ち葉は子供をからかうように、その指先をすいとかすめ、額にこつんと触れて唐突に路面へ落ちる。周りに居た子供たちが、弾けるように笑い出す。私の瞳に切り取られた風景は、まるで映画のように現実感が失われていて、ひどくのっぺりとした気分になってくる。
 甲高いサックスの雄叫びが耳をつんざき、私は我にかえった。視線を戻すと相変わらず聡たちが、スタンダードなジャズナンバーを奏でている最中だった。聡の指が、銅色に変色しかかったアルトサックスの上を、滑らかに動いている。時折マウスピースから唇を離して髪をかきあげる仕草も、タオルでメインボディを拭う姿も、私と愛し合っている時とさほど変わらぬ表情で、私は演奏を聞いているのか、聡に抱かれているのか分からなくなってくる。暗い部屋の中で、ベッドを軋ませて私の身体を支配する時にも、聡は時折髪をかきあげ、私の顔をのぞきこむ。快楽を舐め尽して、呆然と横たわる私の背中を、聡の指が何度も何度も優しく撫でていく。私は聡に操られる楽器に過ぎないのかも知れない。聡の指や唇や腰が動くたびに、私は聡の思うままに声をあげるしかない。
 小さな駅が人々を吐き出すと、家族であったり、恋人同士であったり、仲良しグループであったり、それぞれの小単位に別れて、目指す場所へと歩き出す。そしてその途中で、聡たちの演奏が、彼らの足を止めることになる。
 聡たちがこの場所でジャズライブを行うようになってから、半年ほどたつ。大抵土曜日か日曜日をライブの日にあてていたので、私は三回に一回は一緒にここへ来て、聡たちのライブを見た。聡にはあと一年ほど大学生活が残っていたけれど、私は地元のOA機器の商社に勤め始めてもうすぐ二年になろうとしている。平日のデートはほとんど叶わなかったから、土日くらいゆっくりと二人で過ごしたいと思うけれど、聡はバンド活動だけはどうしても譲らなかった。私は音楽にはほとんど興味が無い上に、とんでもない音痴である。だからここへ足を運ぶ理由はただひとつ、聡と一緒にいられるから。それだけだった。

 歩道に作られた花壇の縁へ腰掛けて、私は背中を丸めた。もう晩秋なのだ。頬に当たる風は、すうっと身体の中にまで染み込んで、そのうち人を意味も無く溶かしてしまうように思えてならなかった。両頬を手のひらで包んで、暖めながら聡の顔を見る。聡は演奏中に私を見ることなどない。私だけではなく、バンドのメンバーと視線を交わす事はあっても、見ている者に視線を投げかける事は聡に限っては皆無だった。私が必死に視線を送ったところで、聡の目は譜面を睨むのが関の山なのだ。ライブが終われば、そして機材を片付けてしまえば、聡は私を振り返る。その目が私をとらえる瞬間が、いつもとても待ち遠しい。
 しかし今私の目が捉えた聡は違う。何かをじっと見つめている。私はつられたように思わずその視線の先を追った。私の右手から五メートルほど離れた場所に、立ち尽くす女の姿がある。聡の目はその女にじっと注がれているのだと、何度も確認して分かった。すらりと背が高く、ワンレングスのショートボブにした髪はさらさらと目にかかり、それを払いのける指先は信じられないほど細く儚げだった。ベージュの革のショートコートに、濃いブラウンの膝丈のスカートを履いている。ストレッチの効いたブーツの上からでも、形のいい綺麗な足が容易に想像できる。首元にはチョコレート色のマフラーをぐるぐると巻いているが、少しも野暮ったい感じはしない。切れ長の目元は私とは違う大人の色を浮かべて、しんと佇んでいる。すっと通った鼻筋も、削ぎ落としたような顎のラインも、美しく人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
 西の空に茜と紫がグラデーションを残していたけれど、街はすっかり暮れていた。ほの白く冷たい外灯の光は、女の凛としたたたずまいを際立たせるように、その姿を照らしている。聡じゃなくても見とれるだろう、私はそう思った。同性の私でさえその姿を何度も確かめずにはいられなかった。通りがかりの男が何人も、彼女を振り返るのを見た。聡たちの演奏に耳を傾けていた、中年の男が、ぼんやりと口をあけて彼女に見とれている。おとなしそうな女子高生が、風にあおられた黒い髪を、手でおさえながら、遠慮がちに彼女の横顔を盗み見ている。
 しかし聡の視線の強さは、そのどの視線と比べても、尋常なものではなかった。さっきからちらりとも譜面に目を落とさず、一心に女の目を見つめている。そして女も少し首を左に傾けたまま、じっと聡の姿を眺めている。聡の強い視線に戸惑う風も無く、高みから興味深いおもちゃを覗き込むような眼差しで、ジャズのリズムにわずかに体を揺らしている。
 私ははじめて嫌悪感を感じた。
(なんなの、この女)
月並みな汚いセリフが頭の中を駆け巡っていく。こんな時どうして男にではなく、女に、激しい嫌悪を抱くのだろうかと、冷静な頭の一部が考えている。ひいき目なしで「女」の出来具合を比べた時に、明らかに自分が劣っていると感じれば、その思いは更に加速する。
 その途端、聡が私ではなく、その女を抱く場面が、フラッシュ映像で脳の中へなだれ込んできた。聡の裸の胸に、その女のさらりとした髪がゆっくりと触れてうごめく場面。聡の唇が、女のありとあらゆる部分に、それこそ夢中でキスをする場面。女が柔らかく微笑んで、聡の下半身から顔を上げる場面。二人の裸の身体が、絡まりながら熱を帯びて、ピンク色に染まっていく場面。果てしない映像の渦の中で、私は自分の姿さえ見失ったまま座り込んでいた。
「今日はこれでおしまいです。どうもありがとう」
素っ気無いいつもの聡の挨拶に、はっと我にかえる。いつの間にか演奏は全て終わっていた。バンドの周りを取り巻いていた人々の足が、色んな方向へ歩き出し、そのざわめきに私の心は現実味を取り戻す。妄想の渦の中に居た自分に、ふと不安を抱いたりしてもいる。
私は気を取り直して聡の側へ歩み寄り、その腕にさりげなく触れてみた。
「ねえ、この後どうする?ご飯食べていく?」
私の声はいつもよりトーンが高い。勿論あの女に聞かせるためだ。
「ん?ああ、そうだな」
そう答える聡が、どこか上の空に思えてならない。聡のグレーのセーターについた糸くずをそっと指先でつまんで捨てる。そしてその目にかかる髪を指ではじいて
「髪、伸びすぎじゃない?」
と笑ってみせる。本当はそんな風に少し伸びた聡の髪が好きだった。サックスを吹くためにうつむく時、ばさりと髪が顔にかかるのも、そしてそれをかきあげている姿を見るのも好きだった。
「お前どうしたの?」
聡は少し声を小さくして私を見おろした。その目にどこか冷めた色を感じて、私はいたたまれない気分になってくる。聡の心は、もう私にはないのだろうかと思うと、鼓動が激しくなり額に汗がにじんだ。
「そうか、これがあんたの彼女なのね?」
突然背後から透き通った女の声がやってきた。振り向くと、あの女がコートのポケットに手を入れたまま、こちらへ歩み寄ってくるところだった。秋風に吹かれて冷えた頬が、さっと赤くなるのを自分ではっきりと感じた。
「ああ、まあね」
聡がぼそぼそと答えるのを聞いて、私は少しだけ救われた気持ちになる。「違うんだ、これはただの友達で」等と言われたら、その場で喉をかき切って死んでしまいたいくらいだ。
 ベースを担当している相馬君と、ドラムの道下君が、その女に軽く会釈する。私の頭はまた混乱の迷路へ追い込まれて呆然とする。
「どうしたんだよ?こんな所まで来て」
唇を尖らせて言う、聡のその言葉の感じが、私に対するそれよりもずっと深いものを感じさせる。私の直感は当たっているのだろうか。もう半分泣きたい気持ちで、聡の顔を見上げる。
「たまたま通りかかったのよ。いいじゃないの、見るくらい」
女の笑顔は優しい。言葉の印象よりもずっと。
「じゃ、私帰るけど。あんた今日も遅いの?」
「まあね。母さんに余計な事喋るなよ」
母さん?聡の一言は、私を闇からすいと救い上げる力を持っている。それでもぽかんとしている私を振り返り、女はにっこり微笑んだ。
「弟がいつもお世話になってます。姉の由佳です」
空いた口がふさがらないとはこの事だった。言葉もないまま会釈を返すのが精一杯だ。そんな私の顔を見て、道下君が吹きだした。
「ねえねえ浅海ちゃん、もしかして由佳さんのこと、聡の女だと思ってたでしょ」
「あ?そうなの?バカじゃないの、お前」
聡は面倒そうに髪をかきあげてそう言うと、もうあとは興味を失ったように、楽器を箱にしまい始めた。道下君と相馬君が顔を見合わせながら笑い、由佳と名乗った聡の姉は、
「かわいい彼女じゃない。今度家にも連れてきなさいよね」
と、聡の肩を小突いた。聡は返事もせずに、腰を折って、ベースのケーブルをたぐり寄せている。
 私はあらためて由佳さんの顔をじっと見つめた。背が高いのは聡の家のDNAだろうか。聡は百八十センチを越える身長で、百五十センチそこそこの私は聡が腰をかがめないと視線があわないほどだ。でも由佳さんはヒールのついたブーツを履いているとは言え、聡と十センチも違わない。色白も似ている。青白い陶器のような透き通った肌。そして切れ長の瞳は、姉弟と言われれば、なるほどと頷けるほどにそっくりだ。由佳さんの方が瞳の色が少し薄いが、その形やバランスはよく似ている。聡が女だったらこうなるんだろうと思わせる姿だと確認して、私は密かにほっと胸をなでおろす。
「それじゃ」
ひらりときびすを返して、駅の方へと歩き出したその姿を、私は呆然と見つめる。長い足が、乱れることのないリズムで運ばれていくのを、見送らずにはいられなかった。
「おい、浅海、手伝え」
聡がそう言って、いつの間にか抱えてきたスネアドラムを、私の背中に乗せる振りをする。私は慌てて、軽くかかった背中の重みから逃れ、聡の顔を見る。切れ長の瞳は、いつも通り穏やかで優しい。いつもその瞳に見つめられると、私は泣きたくなってくる。そして言いようの無い感情を振り払うため、わざとはしゃいでみせるのが常だ。折りよく相馬君と道下君が、楽器を抱えてやってきたので、私はすぐ側にできた銀杏の落ち葉の山を両手ですくい上げる。そして三人の男の頭上に向かって、銀杏の葉を放り上げる。金色の銀杏がひらひらと落ちてくるのを、笑いながら首をすくめてやりすごしている三人の姿に、私は密かに溜息をつく。
 お姉さんだって。
安心していいはずなのに、私の心は、それを知る前よりももっと混乱していた。妄想の中にいた聡と由佳さんの姿を反芻して、笑っている側から泣きたいような、奇妙な不安感がやってくるのだ。その不安感は、訳も無く沸いてきては去りそしてまた戻ってくる、その繰り返しだった。







2.piu《音楽用語。「よりいっそう」》


「ね、お腹すいてない?」
なんで君はそう無防備に、僕の腕に触れたりするんだ?ありもしない希望を抱いてしまうじゃないか。その小さな手のひらが触れただけで、僕が何を想像するか分かっているのか?僕は君をぎゅっと抱きしめて、その顔が恐怖に歪もうがお構いなしに、止まらない波に飲み込まれていく妄想を抱いているんだぞ?
 そんな思いは、一言だって口に出来るはずもなく、僕はバカみたいに笑って、浅海ちゃんから手作りのサンドウィッチを渡される。バンドの練習をしている時には、必ず訪れるワンシーンだ。浅海ちゃんが作ったサンドウィッチやらクッキーやらを、僕が口にする事が出来るのも、当然聡がいるからだ。彼女は聡を喜ばせるためだったら、朝六時に起きて、いそいそとキッチンに立つこと位苦でもないのだ。そこのところを、三十分に一回は言い聞かせていないと、どこかでふいに鍵がはずれて、彼女を抱きしめてしまったりしそうな自分が恐ろしかった。
 バンドの練習をしていると、三回に一回はスタジオにやってきて、可愛らしい笑顔をふりまいてくれるのが浅海ちゃんだった。僕の古いウッドベースを物珍しそうに眺めては、
「こういう楽器に惹かれる相馬君って、感受性が強いんだと思うわ」
と訳のわからない感心の仕方をされた。訳がわからないなりに、結構悪い気はしないのが、僕の単純なところだ。
 小柄で、ポケットにでも入れて帰りたくなるような浅海ちゃんを聡が選んだ時、二人があまりに似合いすぎて、僕は嫉妬すら出来なかった。聡と浅海ちゃんは同じ高校の同級生だったのだが、卒業式の日に告白したのは、浅海ちゃんの方だったらしい。聡はその時はいい返事をしなかったが、大学に入ってしばらくしてから彼女と付き合う事になったのだ。僕は大学に入ってから聡に出会ったわけで、一年生の春頃は、友達の一人として浅海ちゃんを紹介された。そしてその年の夏が終わる頃、二人は付き合う事になっていた。
 正直言えば、僕は浅海ちゃんに一目ぼれだった。
「はじめまして」
と、ぴょこんと頭を下げたその姿を見ただけで、僕は取り乱した。これが恋に落ちるって事なのかと、臆面も無くそんな事を考えては身悶えた。それでも、そんな自分の思いを抑え付けて余りあるほど、二人はよく似合っていた。背の高い聡が、のんびり歩いているその横を、いそいそと浅海ちゃんが歩いていると、飼い主に子犬がじゃれついているようで、見ている誰もが微笑まずにいられない雰囲気があった。何より高校時代からの浅海ちゃんの思いが成就したと思えば、それはやっぱり喜ぶべき事なんだと僕は思った。
 そうは言っても、僕の思いは簡単には方向転換してくれなかった。すぐ側にいるのに届かない、そのもどかしさが余計に望みの薄い片思いを燃え上がらせているようにも思えたが、とりあえず、僕の好きな人は、今でもやっぱり浅海ちゃんだけだった。

 寒い冬の季節が、僕は苦手だ。寒くなければ冬なんてどうってことないのだが、そんな冬はありえなかったし、これから先もきっと程度の差はあれ、冬は寒いものなのだろう。僕のアパートの部屋もご多分に漏れず、冬の恩恵を授かって、夜にはエアコンで室温を上げなければ震え上がるほどになってきた。その日は金曜日で、午後の授業が休講になったため、突然空いた時間を共有する誰かも見つからぬまま、日当たりの悪い部屋でぼんやりと過ごしていた。辺りが暗くなり、目覚し時計のデジタルの数字がカチリと音をたてて六時を告げると、指先が冷えて百円ライターをするのさえ億劫になってきた。電気代ももったいないし、エアコンなんかつけるより、夕食をとりに出かけようかとぼんやり考え始めた頃に携帯がぶるぶると踊った。テーブルの上で震えている携帯を取り上げると、見覚えの無い番号が液晶に浮かび上がった。
「もしもし?」
電話の向こうから、華やかな女の声がぱっと飛び込んでくる。間違い電話だ、と咄嗟に思う。僕にはそれほど女の子の友達は多くなかったから、知り合いかそうでないかくらいはすぐに分かる。
「もしもし」
とりあえずそう答えて、相手が「あら?○○さんではないですか?」等と言い出すのを待った。
「ああ、相馬君、元気?」
相手の予想外の反応に、僕は思わず電話を取り落としそうになった。僕の名前を知っている人?一体誰だっただろう?僕が黙り込む気配を感じたのか、相手は慌てたように
「ねえねえ、イタ電じゃないからね。私よ、由佳。覚えてない?」
と言った。背後からザアッと車の過ぎる音が聞こえる。
「由佳さん?え、え、どうして?」
聡の姉である由佳さんが、自分の携帯の番号を知っている事、そしてその由佳さんが、わざわざ自分に電話をかけてくること、大体僕の事なんかを覚えている事、それらの全てにわたって「どうして?」という気持ちでいっぱいだった。由佳さんとは、聡の家に遊びに行ったうちの、ほんの二回、顔をあわせたことがあるだけだったのだ。

「どうしてって、うーん、そうねえ。気になったのよね、あなたの事が」
由佳さんはモスコミュールの入った、背の高いグラスをもてあそびながらそう言った。由香さんの横顔が淡いろうそくの炎に彩られて、影絵みたいに幻想的だった。
 僕はとるものもとりあえず、由佳さんの指定したビルへ来てしまった。ビルの1階に入っている喫茶店の前で待っていた由佳さんは、喫茶店ではなく、エレベーターを使って、八階にあるバーへ僕を促した。飲み物が運ばれてきて、落ち着いた所で僕は、どうして僕に電話をしたのかと尋ねたのだった。
「ちょっとお話してみたいと思わせる男の子だったわけよ、あなたは」
由佳さんはそう言って、悪戯っぽい微笑を投げかけてきた。そんな事を言われてしまった僕は、情けない事に何も言えなくなってしまった。年上の美しい女性に、心臓を掴まれるような言葉(少なくとも僕にとってはそうだった)を言われたからと言って、早速口説きに入れるほど、僕は大人でもなかった。大体口説くって、どうやったら成功するんだ?
 薄暗いバーの、窓際の席で、僕たちは並んでスツールに腰掛けている。由佳さんは、襟ぐりの大きく開いた白いセーターを着ていて、下は長い足をスリムなジーンズに包んでいた。さりげないけれど、全然手抜きに見えない、洗練された女の匂いがする。僕はほっそりとした由佳さんの喉を、アルコールが通り過ぎていく様をじっと眺めていた。
「番号は聡から聞いたんですか?」
やっと喉から押し出した僕の声はかすれいてる。頭が痛くなるほど効きすぎた空調のお陰で、喉がからからになっているのだ。そこへビールを流し込んで、落ち着かない心を静めようとする。
「ううん、勝手に聡の携帯覗いて、番号探したのよ」
由佳さんはぺろっと舌を出して笑った。子供みたいに無邪気な笑顔だった。
「え、大胆ですね」
僕もつられて笑い出す。笑ってしまったら、なんだかぎこちない空気が壊れて、スーッと体の力が抜けていった。
「気になった、って言うのはどの程度なんでしょうね」
僕が問い掛けると、由佳さんはゆっくり首をかしげた。ゆっくりじゃないと、首の骨が折れてしまうんだとでも言うように。
「心に引っかかった、という程度よ。琴線に触れたの。なんとなくね」
琴線に触れる。由佳さんの心の中に存在する、細くゆらめく銀色の糸を想像する。それはベースに張られた弦のようにも思える。僕の指が由佳さんの身体に張られた銀色の弦を弾くと、由佳さんは甘い声で歌いだす。きっと今までに聞いたことの無いような、神々しい歌を。
「まあでも、その気持ちが恋だか友情だかは、自分でもちょっとわからないな。もっと違うものなのかも知れないし」
由佳さんのその言葉が、あらぬ妄想を砕いて、遠い場所へ運び去る。恐らく際どいラインギリギリのセリフだったはずだが、由佳さんの唇を通して語られると、少しもいやらしくなく、ただ素直に納得してしまう。
「年下が好き?って事ではないんですよね」
冗談めかして聞いたのは、少しアルコールが回ってきたせいかも知れない。普段なら、浅海ちゃんのことが常に頭にあって、たとえ二人っきりのシチュエーションであっても、相手に気を持たせるような言い回しはしない。
「どうかなあ?あまり考えた事ないけど。でも今まで付き合った人は年上の人ばかりね。それもうんと年の離れた」
由香さんのグラスが空になったので、通りかかった店員に声をかける。由佳さんは杏露酒を使ったカクテルを注文し、僕はビールを追加した。
「うんと年の離れた、か。似合うな、由佳さんには」
僕は多少傷ついた事を隠して、笑ってみせる。何を期待してるんだ。由佳さんは、確かに大人の余裕のある男にこそ似合う女なんだ。
「ファザコンね、きっと。父が早く亡くなったから、憧れがあるのかも知れない」
「え?お父さん……居ますよね?」
思わずそう聞いてしまってから後悔した。人には色々と事情ってものがある。僕はこういうところが子供なんだ。
「うん、いるいる。再婚したのよ、母は。もう六年たつかな?でも三歳から高校を卒業するまで、母親だけで育ったからね」
由佳さんの声は、思ったよりずっと明るかったので、僕はほっとしながら由佳さんの横顔を見た。しかし由佳さんの瞳は、少しも笑っていなかった。何かを考え込むように、唇を噛んで、窓の外に広がる街の灯を睨みつけている。
「あの、余計な事言っちゃって。ごめんなさい」
僕は首をすくめて小さくそう言った。怒らせてしまったのだ。そう思うと、身の縮む思いだった。由佳さんはその言葉に我に返ったように、僕の顔を見つめた。ゆらゆらと燃えているろうそくの炎が、切れ長の目を、ガラスのようにキラキラと輝かせている。
「ううん。違う。気にしてないわ」
そう言いながら、彼女はじっと僕から目を離さなかった。その瞳に耐えられず、僕は思わずうつむいてしまう。僕のグラグラと揺らぐ幼いスケベ心なんか、由佳さんには全て透けて見えてしまうんだろうと思えてならなかったのだ。すると由佳さんの左手が、するすると僕の腕に伸びてきた。細い手が、ゆっくりと僕の肘のあたりに触れ、そして探るようにそのまま僕の手の甲までのぼってくる。柔らかなぬくもりが、一気に僕の身体を火照らせていく。僕はそっと腕を伸ばして、由佳さんの肩を抱いた。甘い香りがふんわりと立ちのぼり、僕の自意識が、すいと衰える。由佳さんの身体が強張らない事を確認して、僕はゆっくりと由佳さんの髪を撫で始める。まるで子供のような素直な髪は、さらさらと指をすり抜けて心地いい。すると由佳さんはすっと伸び上がって、その頬を僕の頬にすり寄せてきた。柔らかな肌が、僕の頬を撫でていくと、意思に反して身体の中心が硬くなっていった。それはどのみち抑えようがなかっただろうし、その時の僕は「抑えなければ」と言う理性さえ、くずかごに丸めて捨ててしまったような具合だったのだ。僕は腕の中にいる由佳さんの顎を、左手でそっと持ち上げてみる。そして恐る恐るその唇に、自分の唇を重ね合わせた。由佳さんの小さな唇は、吸い付くように僕を受け入れた。僕の下唇をそっと舐め、上唇を優しく噛み、僕の頬に手を当てる。僕はキスに夢中になりながら、めまいに襲われそうだった。由佳さんの舌が、僕の舌に触れて、柔らかく動くと、僕はそれだけで射精してしまいそうだった。できることならこの場で由佳さんを押し倒し、その身体を開いて、押し入ってしまいたかった。唇を離して由佳さんを見つめ
「あなたを抱きたくなっちゃった」
と溜息混じりにつぶやいて、なんとかその場で彼女を押し倒すと言う欲望を押し殺す。しかしそれで彼女が頷いてくれさえすれば、店を出て、ホテルを捜して、由佳さんを抱きしめる事が出来るはずなのだ。そして断られる事はないだろうと思った。僕たちの気持ちは同じなのだと思った。そうでなければ、こんなにストレートに自分の欲求を口に出せるはずも無い。
 すると由佳さんは伝票をつかみ
「出ましょう」
と僕を促した。僕は頷いて、ここから一番近いホテルがどこなのか、全く知らない事に、多少焦りを覚えた。
 店の払いは僕が出すと言ったが、由佳さんは自分から誘ったのだからと言って、譲らなかった。きちんとエスコートしたいのだと喉まで出かかったが、レジの前でもめるのも気恥ずかしいので、この後のホテルの支払いは僕がすればいいと考えて、ご馳走になる事にした。
 エレベータの中での空気は微妙なものだった。僕の右手と由佳さんの左手は、ほんの少し触れて、けれどどちらからも相手の手を握り締めるような事はなかった。表の世界から隔離された狭い空間で、もう一度キスしたいと思った瞬間にエレベータのドアが開いた。ふつりと緊張の糸が切れた僕は溜息をついて、由佳さんの後ろに従いビルの外へ出る。ガラスの自動扉が開いた瞬間にざっと冷たい空気が僕たちを襲い、由佳さんの唇から白い息が吐き出される。アルコールとキスで温められた身体が、芯から冷え切ってしまうような気がして、僕は由佳さんの肩を抱こうと手を伸ばした。すると由佳さんは、するりと僕の手をかわした。
「どうしたの?」
僕は多少酔いの回った頭を覚ますように声を出してみる。
「帰るね」
由佳さんはふわっと微笑んでそう言った。僕はぽかんとして彼女の顔を見つめてしまう。
「帰る……の?」
我ながら間抜けな反応だ。身体はまだ性欲で燃えているのに、その一言で、すうっと心が冷えていくのを感じる。
「楽しかった。ありがとうね、付き合ってくれて」
由佳さんはマフラーを首に巻きつけながら、手を振ってみせる。さっきまで情熱的に僕を求めてキスをした、それと同じ人とは思えない。
「あの……」
往生際が悪いと思いながらも、僕は混乱して、立ち去ろうとする由佳さんに声をかけてしまう。すると由佳さんがくるんと振り向いた。
「あなたに惹かれたわけがわかったわ」
優しい口調。優しい瞳。そして少し哀しい唇。
「どうして惹かれたんだろう?」
僕が聞くと、由佳さんは哀しい唇をそっと開いてこう言った。
「死んだ父に、あなたは似ているの。写真の中にいる父しか知らないけれど。でもあなたはよく似ている」
それを聞いて、由佳さんが帰ると言い出した理由がよく分かった。僕の性欲はおさまりはしないが、やはり帰ったほうがいいのかも知れないと思った。僕は二十歳で、女性経験なんてほとんどなくて、勿論結婚だってした事はないけれど、それでも本能の部分に、明らかに父性が存在しているのだと、その時初めて知った。僕の中の父性が、由佳さんもまた紛れもなく、無償の愛で包まれるべき「娘」なのだと激しく叫んでいた。
「ちゃんと見てるよ、由佳」
僕はそう言った。僕には彼女の父親の気持ちが、分かる気がした。そして、その父親に焦がれる由佳さんの気持ちも。
「お父さんは、いつでも由佳を見ているよ。ちゃんと思っているよ、由佳の事」
由佳さんの顔から微笑みが消える。僕は由佳さんの身体を抱きしめる。性欲は鎮まり、ただ人を愛しいと思う気持ちだけで、僕は由佳さんを抱きしめる。
「たった一人の娘だから。由佳の事を忘れたりしないよ」
僕がそこまで言うと、由佳さんの肩が震えた。僕の胸に顔を埋めたまま、由佳さんはしばらく震えていた。暖かく湿った身体の下へと、透明な雫が落ちていくのを、僕は見て見ぬ振りをした。夜はまだそう深くもない時間で、街を行く人々は、物珍しそうに、あるいは邪魔そうに、僕らを眺めて去っていく。しばらくそうしてから、顔を上げた時、由佳さんの顔には涙はなかった。ただ赤く泣きはらした切れ長の瞳が、恥ずかしそうに僕を見て、そして宙をさまよっただけだった。送らなくていいという由佳さんの言葉が、あまりに断固としていたので、僕はその後姿を見送るために、ビルの前に立ち尽くす。由佳さんは子供のようにふわふわと歩いていたが、二百メートルほど行ったところでふいに立ち止まり、こちらを振り向いた。
「ありがとう」
そう言ってにっこりと微笑んだその顔はもう、大人の由佳さんだった。そしてそのまま角を曲がって、見えなくなった。僕は一人でガードレールに腰掛けて、煙草を取り出す。自分の中に生まれた感情が、一体なんなのかさっぱり分からなかったのだ。冷たい空気にさらされながら、僕はしばし、行ってしまった美しい人の、見ることの出来なかった部分を思い浮かべていた。そして、抱く事が出来なかったその人に、強く強く引き寄せられている事に気付いて、一人苦笑した。
 僕たちはその後二度と二人きりで会う事はなかった。聡の家で顔をあわせることがあっても、一言二言冗談を交わして終わってしまう。相変わらず由佳さんは美しかったけれど、そんな美しい人とキスをしたのだと言う事だけで満足することにしている。それ以上の事は考えるのはやめてしまった。そして相変わらず、浅海ちゃん、浅海ちゃんと不毛な片思いを続ける事が、案外僕にも幸せなのかも知れないと、言い聞かせて毎日を過ごしている。







3.blue note《ブルース音階の特徴。ジャズの代名詞》


 俺の中には、いつもすっきりしない霧がかかっていて、どんなに楽しい事があっても、どんなにつらい事があっても、まるで他人事のような気がしてしまう。
「落ち着いたお子さんね」
と、幼い頃は言われ、中学から高校にかけては
「穏やかで誰にでも親切」
等と当り障りのないことを言われるタイプだった。
 けれど本当は違う。どんな事にもさして情熱を感じる事が出来ないだけだ。他人に譲ると言う事が、苦にはならなかった。競争している奴らの気が知れなかった。他人のする事に興味がない以上に、自分自身に興味がなかった。だから、こんな自分が、まさか女の子から告白されるなんて思ってもいなかったし、ジャズと言う得体の知れない音楽にのめりこむことになると言う事も想像がつかなかった。
 浅海は僕から一番遠い場所にいる女の子だと思っていた。明るくて活発で、特別美人と言うわけではないけれど、誰もが好感を抱かずにはいられないかわいらしさがあった。屈託がないと言う言葉は彼女の為にあるのだと思えた。俺は正反対だ。屈託がありすぎて、自分でもうんざりする。
 三月だと言うのに、大雪に見まわれた俺達の卒業式は、積もり積もった雪の中に埋められて写真を撮っている野球部の連中とか、ジャージ姿しか見たことのなかった体育教師の、せっかくのスーツ姿を、雪玉でびしょぬれにしている騒がしいクラスとか、そんなものでごった返していた。俺は薄汚れた上履きを、玄関の脇にある花壇に投げ捨てて、クラスの連中の歩く波に一緒に押し流されながらバス停へ向かった。卒業だからと言って、俺の中には何の感興も湧いてはこなかった。二度と巡らない季節を惜しむような執着心は、俺には無関係だったのだ。
 傘が重くなるのを理由に、ほとんどの生徒が傘などさしていなかったが、俺もその一人だった。何度も螺旋を描いて繰り返し落ちてくる雪が、足元で白い道路になる瞬間を見つめながら、ただ歩く事に没頭していた。ふと、背後に軽い息づかいが迫ってくるのを感じた。そして次の瞬間には、制服の肘の辺りを後ろからぐっと引っ張られて、単調な歩みが中断されてしまった。振り返ると、そこには浅海がいた。頬を真赤にしているのは、恐らく寒さからだろう。息を弾ませて、しばらく何も言えないでいる浅海を見おろしていると、突然浅海の手が俺の制服のボタンへ伸びてきた。唐突な行動に驚いて、俺は思わず身をそらしてその手をかわす。
「何?どうしたの?」
そう聞くと、浅海は荒い息の下から搾り出すように
「ボタン、ちょうだい」
と言った。
「ボタン?別にいいけど」
俺はわけがわからないまま、無造作に制服の一番上のボタンをむしりとって彼女の目の前に差し出した。するとそれを見て、浅海はボロボロと涙を流し始めたのだった。俺はどうしていいのか分からずに、差し出した手を引っ込める事すらできないまま、その場に立ち尽くしていた。浅海は子供みたいにしゃくりあげて、両手をぐっと握り締めていた。
「ええー!お前、こいつの事が好きだったの?」
いつの間にかバス停から引き返してきた、クラスの野次馬連中がいきなり声をあげたので、俺は慌ててボタンを引っ込めた。好き?そんなことじゃないだろうが?
「おいおい、ちゃんとエスコートしてやれよ。何泣かせてるんだよ、お前」
山田がだみ声で叫んで、俺の肩を嫌と言うほど小突いている。
「すっごい意外だなあ。いいなあ、俺もこんな風に告られたいよー」
飯島がアホはアホらしく、胸の前で手を組んで身をくねらせている。
「うるさいなあ」
俺はぼそりと言って、野次馬をにらみつけた。そしてポケットを探って、ハンカチを取り出した。卒業式だからといって、アイロンをかけたハンカチを、母がポケットに突っ込んだものだった。卒業式だからって俺が泣くのかよ?とは言えなかったから、黙ってそのまま家を出てきたが、一応役には立つらしい。俺はそのハンカチを浅海の右手に握らせて、バス停へ向かった。誰もが俺の背中を、呆気にとられて見つめているのが分かる。
「お前は鬼か!」
背後から聞こえてくる声は、俺を罵倒したのだろうが、何故そんな事を言われるのかさっぱり分からない。静かな場所へ行きたい。騒がしい場所は気が滅入る。俺はバス停をやりすごし、駅までの三キロの道のりを、一人歩き続けた。

「馬鹿だね、それは告白でしょうが」
姉の由佳は、笑いながらそう言った。自宅へ戻って部屋でぼんやりしているところへ、由佳が帰ってきて今日の様子を聞くので、ついでのように浅海の話をしてしまったのだ。
「告白?」
俺は浅海の姿を思い出してみた。必死になって追いかけてきた形相。無言でいきなりボタンに手をかける仕草。そして泣き出して止まらない横顔。
「うーん、あれが告白だったら、俺恐いんだけど」
俺は苦笑してベッドにごろんと横になる。告白ってもっと可愛らしいものじゃないのか?まあそんな贅沢を言える身分でもないのだが。
「酷いわね。よっぽど勇気を振り絞っての告白なのよ、それは」
由佳の細いうなじが目の前でゆらゆらと揺れる。
「俺には女の気持ちはさっぱりわからないな」
溜息混じりにそう言うと、由佳は笑いながら俺の足をぽんぽんと叩いた。
「まあゆっくり考えて返事してあげなさいよ。女の気持ちが分かる、分からないって言うよりも、人間として酷い事はしないようにさ」
その言葉は俺の心の小さなささくれに、微妙な形で引っかかった。気にしなければ、何かの拍子にふっと落ちてしまうようなものなのに、その時は引っかかってしまった。
「お前は鬼か」
とクラスメイトはそう言った。俺は全くひどい事をしたという気持ちはないけれど、普通の人々から見れば、常軌を逸した、ひどく非人間的な行動を、知らぬうちにとっているのかも知れない。浅海を深く傷つけたのだろうか。そしてそこに居た無関係な野次馬達の心も?
目の前にある景色が、何もかも突然色を失っていく。自分と言う人間が、ひどく遠いところにいる、まるで別の固体であるかのように思われてくる。俺は自分の行動にすら責任が持てない。心臓が内側から強く俺を叩く。胃がズキズキと痛んで、吐き気がする。
「大丈夫?」
突然黙り込んだ俺を、由佳がそっと覗き込む。
「……うん」
俺は声を吐き出す。手が震えて冷や汗が背中を伝うのを感じる。
 由佳は立ち上がって、ベッドにこしかけ、俺の背中をさすった。
「大丈夫よ。大丈夫。何も恐くないから」
俺は身体をガクガクと震わせながら、身体を小さく丸める。虫けらみたいだ。ふいに泣きたくなってくる。気がつくと、閉じたまぶたから、涙が一筋流れていた。それを見て、由佳は俺の身体を抱きしめた。
「恐くないのよ。ちゃんと分かってるから安心しなさい」
由佳の声を聞きながら、俺はその身体にぎゅっとしがみついた。力の加減が効かなくなった腕は、由佳の細い身体を否応なしに締め付けてしまう。そして、由佳のセーターをまくりあげ、その下に着けているブラジャーをずらして、乳房をあらわにした。俺はその乳首に吸い付いた。
 由佳は動じることなく、そのまま俺の背中をゆっくり撫でている。由佳の身体にしがみつきながら、片方の乳房を握り、乳首を吸い続けるうちに、俺はいつの間にか意識を失っていった。
 気がつくと、俺は一人ベッドの上にいた。身体には毛布がかけられている。全身の力は抜け、身体を起こす気力さえない。由佳のにおいが残るベッドの上で、俺は寝返りを打つと、再び眠りに落ちていく。

 俺には損なわれている部分がある。突然心神喪失状態になってしまうことが、小学四年生になる頃からよくあった。大抵はいわれのない恐怖に身も心も奪われて、どうしようもなくなってしまうのだ。
 母は由佳が三歳の頃に由佳の父親に先立たれている。そしてそれから二年後に俺が生まれたが、俺の父親は今いる父親ではなく、はっきりと素性が分からない。だから俺には自分の父親の記憶が全く無いのだ。物心がついた頃には、母親は、一人で子供たちを育てていく事に必死だった。朝から晩まで働きづめで、おまけに俺たちの面倒を見てくれるような祖父母や親戚も側には居なかった。俺は幼い頃から、大人の愛情というものを理解する機会を与えられなかった。その不安感が一気に出てしまう為の発作だと、母に連れられて行った病院で言われた。医師の口から事細かに語られる俺の病気の原因に、母はその場で泣き崩れた。
「ごめんね。ごめんね」
病院からの帰り道、母は泣きはらした目で俺の手をぎゅっと握ったままそう繰り返すのだった。
「お母さんが悪いんじゃないよ。病気になる僕が悪いんだ。だってお姉ちゃんは元気なんだし」
俺はぼそぼそと答えたものだった。人間が生きていくというのはそんなに簡単な事じゃない。母が俺の為に働くのを止めて家に居れば、俺達は間違いなく餓死するしかないのだ。だから俺の病気は俺が自分で何とかするしかないのだ、と思っていた。
 病院で薬を処方してもらい、発作を抑える事はできたが、完全に治ると言う事はなかった。時々激しい発作を起こして、意識を失うまで身体を震わせている事があった。暗い部屋の片隅で、誰にも知られる事なく、このまま死んでしまうのだろうかと思うことさえあった。そうなると恐怖はピークに達し、自分でもコントロールが効かなかった。
 ある日学校から帰ってきて、一人でテレビを見ているうちに発作はやってきた。薬を飲んでもなかなかおさまらない。そこへ由佳が帰ってきた。由佳は所在無く部屋の中に転がって天井を見つめている俺を、ぎゅっと抱きしめた。由佳は、母の代わりになろうとしていたのだった。ただただ俺を救いたい気持ちでいっぱいだったのだろう。
 そして由佳はその乳房を俺に与えた。赤ちゃんをあやすように。俺は何の躊躇もなくその乳房にしがみつき、赤ちゃんが一心に母のお乳を吸うように、由佳の乳首に吸い付いたのだった。俺の心はすっと穏やかになっていった。まだ幼い乳房であるにもかかわらず、そこには母親の匂いがした。俺もこうして母に育てられたのだと、きっと側にはそれを優しく見守る父が居たのだと、素直に感じる事が出来た。言いようのない安らぎが俺を包んで、そのまま眠ってしまうのが常だった。
 思春期を迎えて、俺達は、姉弟とは言え、時にはそれが危うい秘め事に通じる行為だと言う事に気がつき始めた。由佳の身体は女の匂いを放ち、俺がそれに反応してしまう事もあった。だから俺の身体の中心が硬くなってしまったときには、由佳はすっと身体をひいた。俺はそのまま由佳を押し倒して犯してしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。由佳は弟の俺から見ても充分美しく、その身体は日ごとに成熟していくのだ。
 しかしたとえ死ぬほどやりたいと思うときでも、俺は絶対に由佳を抱かないと決めていた。姉弟なのだから当たり前、と人は言うだろうが、理由はそんな事ではない。そんな理由だけなら、俺はあっさり自分の方針に見切りをつけて、姉を抱いてしまったのかも知れない。
 理由はただひとつ、由佳が俺を「弟として」救おうとしていたから、それだけだった。複雑怪奇な迷宮に足を踏み入れる行為と分かっていながら、由佳が俺にその乳房を与えたのは、俺に「母の愛」を与えたかったからだ。由佳が俺に性欲をひとかけらも持っていない事はよく分かっている。気持ちが伝わってくるだけではなく、無理矢理由佳の性器に触れてしまったとき、そこが固く閉ざされていて、少しも潤う事がなかったからだ。俺はそれ以来二度と、由佳の下半身に手を入れるような事はしなくなった。由佳の気持ちを裏切りたくはなかった。
 俺は由佳を愛しているのかも知れない。由佳以外の女に、由佳に感じるのと同じ気持ちは抱いた事がない。だけど俺には、そもそも「愛する」と言う事が、一体なんなのかさっぱり分からなかった。見たことも聞いたことも触った事もない愛を、俺が理解できるはずがなかったし、特に手に入れたいとも思わなかった。もっと他に手に入れなければならないものがたくさんある。生きていくってのは骨の折れる事なんだから。

 高校を卒業して、大学生活が始まると、今まで出会ったこともないような、様々な人間たちに出くわした。俺はそれほど変人じゃないのかも知れないと思うのに、二週間はかからなかったくらいだ。
 同じ学科の相馬や道下も、入学式当日からドレッドヘアにスーツと言うアンバランスな格好で現れたので、こいつらとは友達にならないだろうと思った人種だった。しかし残念ながら、相馬も道下も、死ぬほど陽気で人懐っこかった。
「ねえねえ、俺寝ちゃうかも知れないからさ、後でノート見せてくれる?」
経済学の講義をたまたま隣で受けたが為に、道下からそんな事を頼まれたのが、彼らと付き合いだしたきっかけだった。二人は入学早々、大学のジャズサークルに入っていて、仲が良かったので、相馬と話をするようになるのにも時間はかからなかった。
 俺が何も考えずに、中学時代ブラスバンド部に入っていたなどとうっかり口を滑らせると、奴らは目を輝かせて、ジャズサークルの部室へ俺を連れ込んだ。音楽にはもう興味がないんだといって散々断ったのに、そんな事はお構いなしだった。
 俺はやかましいものが嫌いだ。騒音などには耐えられなかったし、高校に入った頃からは、音楽を聴く事すら苦痛になっていった。大きい音を出されると必要以上に神経にさわってしまう。
「だから音楽嫌なの。特にでかい音の音楽は」
俺が不機嫌そうにそう言うと、道下はにっこり笑ってこう言った。
「お前耳がいいんだよ。音に敏感なんだな。音楽の才能絶対あるぜ」
「……お前ってすごく前向きな奴だよな」
呆れてそう言ったのだが、道下は全く気にしていない。
「うん、俺って自分でも驚くほど前のめり。って言うか、お前が暗いんだよ」
いとも簡単に言われてしまったセリフ。「暗い」と随分明るく指摘してくれるじゃないか。
「でも、さっきのは本音だよ。お前多分音楽向いてるよ」
道下はそう言って、もう一度にっこり笑った。ドラムを叩いている時も、飯を食っている時も、こんな風に幸せそうに笑うのだ。その笑顔が、俺を明るい方角へ引っ張ってくれている事に、しばらく気がつかなかったのだが。

 またしても道下と相馬に拉致されて、俺はぼんやりライブハウスの片隅に腰掛けている。純然たるジャズライブスペースなどと言うものではなく、日替わりでロックが演奏されたり、ラテンミュージックで踊り狂ったりする場所らしい。店の中は小さな暖色のランプがぽつんぽつんと配されていて、適度な具合に薄暗い。
 大学のサークルのOBだと言うドラマーがトリオで演奏すると言うから、てっきりピアノトリオなのだと思っていた。しかしまだプレイヤーの居ない小さなステージには、ドラムセットとウッドベースが置かれていて、片隅にサックス用のスタンドがぽつんとあるだけだ。
 俺は洒落たカクテルだのウイスキーだのには馴染みが薄く、ひっきりなしにビールをあおっている。これから展開される音の洪水に耐えられるのか少々不安で、半ばやけくそ気味でもあった。
 なんで俺は、こんな所までやって来たんだ?
「あ、お前飲みすぎだよ。まだ始まってもいないのによ」
俺が三本目のビールを注文したのを見て、相馬が呆れた様にそう言った。飲酒ではなく、ジャズ鑑賞を目的にした人たちにとっては、したたかに酔っ払ったオーディエンスほど、うざったいものはないらしいと、知識として知ってはいた。
「ピアノトリオじゃないんだな」
俺は相馬の批判から逃れようと、切り替えしてみる。相馬は満足そうにうなずいて
「まあ変則的だけど、サックスが入ってのトリオは、そう珍しくないよ」
と、煙草の煙を吐き出した。批判から逃れる目論見は成功したが、そこから相馬のジャズ談義が延々始まってしまった。「そもそもジャズと言うのはクリオールが云々」「ハードバップがジャズを向上させたと思う云々」「この曲のこのシンコペーションが俺には云々」と、聞いている俺にはさっぱり分からない内容を、じっくりと情熱を込めて、俺の目を見て、解説するのだ。俺は苦手な古典の補習授業をマンツーマンで受けているような気分になって、ひどく居心地が悪く、かと言って逃げ出す場所もない、切ない状況に陥っている。こんな時道下は、全く助け舟など出そうとしない。むしろ「ふんふん」「そうだよね」等と適当な合いの手を入れて、相馬をヒートアップさせては、俺の反応を見て面白がっているのだ。
 一瞬照明が全て落ちた。そして次の瞬間には、ぼんやりと灯りが戻ってくる。ステージには三人の人影がゆっくりと現れる。
「ほら、ほら、始まるって」
俺は相馬の背中を叩いて、やっとジャズ談義から逃れる事に成功する。道下の幸せそうな笑い声が横から聞こえて、俺は肩を落とした。
 薄い闇の中に、ベースラインが流れ始め、そこへシンバルを鳴らす音が混じってくる。アップテンポのリズムの上に、サックスの滑らかなワンフレーズが乗ったとたんに、ステージがさっとライトで照らし出される。生演奏の楽器の音は、俺の体の芯の部分を、がくんがくんと揺さぶっていく。大音量で繰り出される音楽の渦は、俺の手を引いて一気に空へ駆け上っていく。一曲目が終わる頃には、俺の体は勝手にリズムをとり、サックスプレイヤーのアドリブを拍手で賞賛し、ビールがぬるくなる事を忘れた。
 比較的大柄なサックスプレイヤーと、細身で長髪のベーシストが目を見合わせて笑う。あごひげを生やしたドラマーが、額の汗を手の甲で拭ったかと思うと、すぐにカウントを入れて、次の曲が始まった。
「ブルーノート……」
俺はつぶやいた。独特な哀愁を帯びたその音階は、ほとんど意識して聞いたことがないにも関わらず、懐かしくて優しいものだった。そう、まるで生まれ育った、古く暖かい家の中のように。
 やがて曲はバラードへ移る。テナーサックスの音が心を締めつける。思わず目を閉じて、音の中に身を委ねる。
「これ、オリジナル曲なのか?」
俺が隣にいる相馬の耳元で聞くと
「いや、カバーだな。ソニー・ロリンスって言うサックスプレイヤーのアルバムに入ってるよ」
と、答えた後、しばらく考え込んでいる。そしてその曲が終わると、拍手を送りながら、
「思い出した。『You Don't Know What Love Is』って曲だよ」
と、今度は俺の耳元で相馬が言った。
お前は愛を知らない、か。
俺は一人苦笑した。俺に言われているみたいだな、と。
 一体何が懐かしいのか、そして何に惹かれるのか、訳が分からないまま、俺はその音の粒に圧倒されていった。少し限度を超してしまったアルコールと、ライブの余韻で、そこから後の俺の記憶は曖昧になっている。ただ、深夜十二時を回って帰宅すると、そのまま押入れをあけて、しまい込んでいたサックスを取り出した事ははっきりと覚えている。酔っ払っている上に、薄暗い押入れの中のことだったから、俺は派手な音を立てて、何回か頭を壁や棚にぶつけた。手前に置いてある衣装箱やダンボールは、部屋の中へ散乱していく。
「何やってるの、こんな時間に」
母が眠りを邪魔された不機嫌そうな表情で、俺の部屋を覗き込む。
「探し物」
俺は母を振り返りもしないでそう答える。やがて見覚えのある黒い箱が現れた。
部屋の中へそいつを引きずり出してみる。箱を開けると、そこには中学時代に使ったきりの、テナーサックスが横たわっている。金色のボディが、蛍光灯の光を受けて、鈍く光る。
「どうしたの?」
母の後ろから、やはり眠りを邪魔された由佳が顔を出した。サックスを手にしてしばし放心している俺を、不思議そうに眺めている。
「またやろうかと思って。今度はジャズだけど」
俺は箱の中から取り出したサックスを、膝の上に抱えてそう答えた。
「へえ」
由佳がそう言って、微笑んだ。
「ジャズか。懐かしいわね」
母はぽつんとそう言って、黙って自分の寝室へ戻って行った。「懐かしい」だって?
 母が部屋の扉を閉める、パタンと言う乾いた音を聞きながら、一瞬自分のしている事は罪悪だらけなのではないかと不安になる。
「お父さんのコレクションだったんだって、ジャズのレコード見せてもらった事があるわ」
振り向くと由佳が微笑んだまま、小さな声でそう言ったあとだった。
「あなたと血の繋がった、お父さん、ね」
由佳の声には微妙はトーンが含まれたが、それでも俺の不安を振り払うには充分なだけの力があった。俺の心は上昇して、不安は消えてなくなり、そのままベッドに潜り込んでしまった。サックスを胸に抱きしめたまま。

 五月のある日、浅海から電話がかかってきた。卒業式以来全く音信が途絶えていたし、恐らく俺の事など嫌いになったのだろうと思っていたので、その電話には心底驚いた。
「聡くん、あのね、ハンカチ、返したいの」
「ハンカチ?」
俺はしばらく考えてから、あの時渡したハンカチの事だとやっと思い出した。
「あんなのいいよ。あげるから。いらなきゃ捨ててもらっていいし」
「ううん、あとね、ボタン、もらってないから」
浅海の声が少し泣きそうに揺れるのを感じた。そうだった。あの時「いいよ」と言っておきながら、ボタンは渡さなかったのだ。
「うーん、ボタンはなくしちゃったかな?まあまだ制服についてるのがあるからそれでもいいよね?」
「くれるの?」
俺は面食らった。
「だってもらってないから、って今言ったじゃん」
すると浅海は噴き出して
「そうだったね」
と言った。電話の向こうがふっとリラックスしていくのを感じた。
「今度ね、聡くんの大学のテニスサークルと合同で練習があるの。そっちの大学にいくことになってて」
そうか、浅海は高校時代テニス部だったなとぼんやり思い出す。夏はいつでも真っ黒に日焼けしていたっけ。
「練習の後、会えるかな?来週の金曜日なんだけど」
「俺はいいけど、合同で練習ってことはその後飲み会とかあるんじゃないの?」
「聡くんに会いたいの」
その言葉には何の計算も躊躇もなかった。その言葉が描いたまっすぐな線が、電話だとか距離だとか時間だとか、そんなものを飛び越えて、こんなにも心を揺さぶるものなのだと知って驚いた。
 そして浅海はやってきた。俺と道下と相馬がいる、ジャズサークルの部室へ。俺は二人に「高校時代の同級生」だと紹介した。
「はじめまして」
浅海は道下と相馬に向かって、人懐っこい笑顔を向けた。浅海はぱりっとしたシンプルな白いシャツに、ブルージーンズと言うさっぱりとした格好だった。高校時代背中まであった髪を肩の辺りまで切り、明るいブラウンに染めていたので、随分雰囲気が変わったと思ったのだが、こうやって笑顔になると、あの頃と同じ屈託のない女の子のままだった。
「聡の彼女なの?かわいいね」
道下が嬉しそうに問い掛けてくる。
「高校の同級生だってば。サークルでうちの大学に来たんだってさ」
俺は慌ててそう答える。浅海だって迷惑だろうと思ったのだ。今更俺の彼女だなんて言われても。
「サークル?どこの大学なの?」
相馬がベースの弦をチューニングしながら浅海に聞いた。
「A短大なんです。こちらのテニスサークルとはよく練習一緒にやらせてもらってて」
浅海の顔には相変わらず感じのいい微笑が浮かんでいる。手にしたラケットを胸の前に抱えなおして、ちらっと俺の目を見た。
「ああそうなんだ!いいなあ、俺もテニスやろうかなあ」
相馬が溜息をつきながら言うので、俺達は笑ってしまった。相馬はひょろりと背が高いが、やせぎすで運動とは程遠い生活を送ってきたのだ。何が今更テニスだよ、と笑わずにはいられなかった。
「あ、じゃ、ちょっと悪いけど外出てくる」
俺はそれを潮に、椅子から立ち上がった。
「あれ、行っちゃうの?別にここで話してもいいのに」
道下が言うのを、手で遮って
「お前らに茶々入れられてたら、いつまでたっても話が終わらないんだよ」
と、溜息をついてみせる。そして浅海を目で促して、部室のドアを開けた。
 俺達はがらんとした学食に入った。時刻は夕方の四時過ぎで、利用している学生はほとんどいないのだ。
「はいどうぞ」
俺は紙コップに入ったコーヒーを、浅海の前に置いた。ゆらゆらと白い湯気が浅海の前髪までのぼり、その下でうつむいている浅海の頬はわずかに紅潮している。浅海とテーブルをはさんで正面に座り、自分のコーヒーに口をつける。
「うーんと、これ、本当にいるの?」
俺は無くさないようにと、煙草のパッケージの中に入れておいた、制服のボタンを取り出そうとした。パッケージを振ると、数本の煙草と一緒に、銀色の丸いボタンがコロンとテーブルの上に転がり出る。
「うん、いる」
浅海は慌てたようにそう答えて、テーブルの上のボタンをじっと見つめた。俺はそのボタンを人さし指と親指でつまんで、浅海の前に差し出した。浅海はその下に両手をお碗のような形にして差し出したので、俺はボタンから指を離す。ボタンは十五センチの落下を経て、浅海の手のひらに優しく受け入れられる。
「ありがとう」
浅海はそっと指を折り曲げて、両手でボタンを包み込んだ。そして我に返ったように、横に置いた白いトートバックを引き寄せて、中を探り始めた。
「これ、ありがとう」
浅海がそう言って目の前に差し出したのは、俺が卒業式の日に浅海に渡したハンカチだった。紺地に黄色と緑のタータンチェック模様。正方形に折りたたんだハンカチには、きっちりとアイロンがあてられていて、新品みたいだと思った。
「うん」
俺はハンカチを受け取りながら、妙に気恥ずかしかった。あの時俺は彼女を泣かせたんだったな。一体なんで泣いたのかも、さっぱり分からないけれど。
「聡くん、少し変わったね」
浅海が突然そんな事を言い出したので、俺は驚いてしまった。
「変わった?いや全然進歩もしてないけど、多分後退もしてないと思うぜ?」
「そんなにびっくりしなくても」
浅海はクスクスと笑い出し、まぶしそうに俺の瞳を見つめた。
「なんだか明るくなったみたい。目に力が出てきたみたい」
つぶやくように浅海の口からこぼれてきた言葉を聞いて、俺は思わず頭を抱え込んだ。
「俺ってそんなに暗いかな?」
道下にもはっきり暗いと言われたが、高校時代からそう思われていたとは。いや、本当はずっとそうだったのかも知れない。
「暗かったよ、聡くん。笑ってるのに、すごく悲しそうな人だと思ったもの」
浅海はそう言って、コーヒーをすすった。熱かったのか、少し顔をしかめて、舌を出す仕草が可愛らしいと思った。
「俺は別に普通のつもりだったけどな」
煙草に火をつけてしまってから、慌てて浅海を見ると、俺が何か言う前に
「あ、いいよ、別に吸っても」
と答えた。
「聡くんが、背負ってるものは、多分私たちには誰にも理解が出来ないんだろうって思ってた。あなたはその分すごく大人だったけど、そんなあなたがひどく悲しそうに見えたの」
俺は浅海の声を聞きながら、不思議な気持ちになっていた。一体何を感じて、俺が悲しいのだと思ったのだろう。
「何があったかなんて、私にはわからないの、勿論。だけど、あなたを見ていると、すごく切なくなったの」
ふと見ると、浅海の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「あなたが優しければ優しいほど、あなた自身が幸せになって欲しいって思った。あなたにはそれだけの価値があるって思った」
浅海の目がまっすぐに俺をとらえた。
「あなたを、幸せにしたいって思った。そのためだったら、私なんでも出来るって」
俺の心がふいにバランスを崩した。心臓が早鐘のように打ち始める。
「幸せにしたい?なんでだ?そんな事してもらっても、多分俺には君を幸せにはしてあげられないよ」
俺はバランスを取り戻そうと、言葉を吐き出す。その言葉の思いがけない荒々しさが、浅海を傷つけていくのを感じる。
「愛情で包み込んでやれば、俺が幸せになれると思ってるのか?人生ってそんな単純なものか?」
「聡くん」
浅海が思わず俺を遮ろうとする。しかし俺は構わず言葉を続ける。
「俺には愛なんて分からないし、それがどれだけ崇高かも知らない。勿論存在すればしたでありがたいものなんだろうけど、それが全てじゃないだろう。そんなもので幸せになんかなれやしない。むしろ無くたって生きていける。違うか?」
「違うわ」
浅海の声が今まで聞いたことも無いくらい強く、俺を押し留めた。
「そのまま生きていくなら、あなたは死ぬ時にこう思うのよ。『ああ俺の人生は一体なんだったんだろう』ってね。愛以外の全てを手に入れたとしたって、そんなもの、死んだら何の役にも立たないわ」
「死んだあとの事まで今から考えろって言うのか」
俺は意固地になっていた。発作を抑える薬を口の中に放り込んだ。
「そんな事言ってない。あなたは愛を知っている。あなたはそれを欲しいと思ってる。本当は一番、あなたが欲しがっている」
浅海の声は涙で途切れた。俺は肩で息を大きく吸って、吐き出した。
「私は幸せにしてもらえなくてもいい。私の分は全部あなたにあげるわ。私は愛する事の意味を、ちゃんと素直に受け止められるもの」
俺は椅子から立ち上がった。これ以上ここにいたら、酷い発作に襲われてしまいそうだった。
「悪いけど帰るよ」
俺はそう言った。自分でもおかしいくらい弱々しい声だった。浅海の様子を振り返ることもせず、俺は足早に学食を出た。教科書を詰め込んだカバンを、部室に置きっぱなしにしていたが、それを取りに戻る気力はなかった。足はただひたすら家路を辿っていった。

 俺は次の週になっても、大学へ行こうとはしなかった。俺は完全にバランスを崩して、何をする気力も失っていたのだ。部屋から出るのはトイレに行く時くらいで、ほとんど食事もとらなかった。CDをプレイヤーにセットする気力も、掛け布団を直す気力も、服を着る気力もなかった。
 水曜日の午後、しんとした部屋にノックの音が響いた。俺はビクンと体を反応させてドアを見つめる。そっと開いたドアから、由佳が顔を出す。
「ちょっと入っていい?」
由佳が遠慮がちに聞いたので、俺はベッドの上に転がったまま頷いて見せた。
「居たのか」
俺は乾いた声を吐き出す。誰も居ないと思い込んでいたのだ。
「水曜が休みだからね」
由佳は不動産関係の仕事をしていて、水曜と日曜が定休なのだと、何となく思い出す。
「どうしちゃったのかな、あんたは」
由佳が優しく微笑みながら問い掛けてくる。かすかにシャンプーの匂いがする。
「少し疲れただけだ」
俺は何の感情もなくそう答える。由佳のシャツのボタンの隙間から、胸の谷間がちらりと見える。
「そうかな?なんだか急に様子がおかしくなった気がするよ」
由佳はやんわりと俺の目を覗き込んだ。俺の目が焦点を結んで、由佳の目を捉える。淡い、澄んだ、ガラスのような瞳。
 その途端、俺の衝動は、由佳の肩をつかんで、ベッドの中へ引き込んでいた。ふいをつかれて、由佳は抵抗する間もなく、ベッドの上へ引きずり込まれる。由佳をベッドへ押し付けて、俺はその顔を見下ろした。
「聡、ちょっと」
何か言いかけた由佳の口を、俺は自分の唇でふさいだ。由佳が慌てたように身体を引き剥がそうと暴れ始める。背中に由佳の拳が何回か叩きつけられたが、俺は構わず由佳のシャツを両手で引き裂き、乱暴にブラジャーをずらしてしまった。丸い乳房につんと尖った乳首を認めると、俺はそこに唇を当てた。スカートをずりあげ、小さなパンティに手をかけて引き下ろす。俺の舌が、乳首から腹へ、臍の周りへと移動していくと、由佳は両手で俺の肩をつかんで、引き離そうとする。俺はふっと由佳の顔を見上げた。
「由佳。こうしたいんだ。お願いだから、このまま好きにさせてくれ」
俺がそう言うと由佳の身体の力がふっと抜けた。由佳は俺の顔を見つめていたが、やがて
「いいわ。その代り、何があったかちゃんと話して」
とつぶやいた。俺は頷いて、由佳の下半身に顔を埋めた。初めて由佳の性器に舌を這わせた。ゆっくりと丁寧に、恐らくここだろうと思われる部分を舐めていると、由佳の吐息が漏れ聞こえてきた。俺は何も考えずに、そのまま由佳の身体が反応する部分を舌で刺激し続けた。長い時間をかけてそうしていると、由佳の身体がガクガクと痙攣して、きゅんっと突っ張り、
「あっ」
と短く声を上げた。由佳の中にそっと指先を入れてみると、しっとりと湿っていて温かいのだった。
 俺は我慢できずに、起き上がると、由佳の力の抜けた足を開き、その間に自分自身をゆっくりとおさめていった。由佳ははっと息を飲み、目を見開いたが、俺がペニスを根元まで由佳の中に入れてしまうと、諦めたように目を閉じた。何回か、確かめるようにゆっくりと腰を動かした後、俺は一定のリズムで、由佳の身体に出入りした。由佳の乳房が揺れるのを見ながら俺はつぶやくように言った。
「卒業式の日に……告白されたって……その女の子に会った」
由佳は目をあけて俺を見た。
「そう……」
由佳は吐息を吐きながら答える。
「その子……俺が……愛を知らないって……でも……愛を欲しがってるって……」
ペニスを動かしながら、俺の目からは涙がこぼれ落ちた。
「俺は……愛を……知らない」
歪んだ自分の心が、由佳の身体を犯している。
「聡……愛してる」
由佳の声が言った。俺は耳を疑った。
「あなたを……愛してる。あっ」
由佳の身体が快感を上りつめていくのを感じる。俺をぎゅっと締め付けているのだ。
「だけど……私は、あなたを幸せにはできない……」
熱い吐息が、俺の耳にかかる。
「聡……私たちは……歪んでしまったけど……でも、ここからまっすぐに戻る事は、できるわ」
俺の身体も、射精の瞬間を迎えた。由佳の身体をぎゅっと抱きしめて、しがみつきながら、一気に射精した。
「もう、二度と……あなたに、私の身体は開かない……」
由佳の手が、ぐったりと倒れこんできた俺の頭を抱きかかえる。
「私にあなたの母親ができるはずなんてなかったわ。私だって、子供だったんだから」
その言葉を聞いたとたんに、俺の目から今度は滂沱のように涙が流れ落ちてきた。由佳には負担だったのだ。五つしか違わない弟の、母親の役目を務めることが、どれだけ苦痛だったのだろう。俺を愛していると言った。そうだ。俺を助けたいと思っていた。その気持ちは、愛だったのだ。
「姉さん。ごめん。ごめんな」
俺はそう言って泣き続け、由佳もまた俺を抱きしめたまま嗚咽した。

 俺はしばらく自分のしたことの意味を考えあぐねていた。常軌を逸した自分の行動を思うと、気が狂いそうだった。それでも俺は、このまま潰れてしまうわけにはいかない。潰れたくない。俺の中に、初めて欲が生まれた。コルトレーンみたいにサックスを吹きたい。カッコいいスポーツカーで海へ行ってみたい。人生をかけて悔いの無い愛を見つけたい。人生をかけて悔いの無い夢をつかみたい。
 たまらなく浅海に会いたいと思った。浅海の顔が見たかった。それでも、姉を抱いてしまった自分が、のこのこと浅海の前に顔など出せないと思っていた。浅海を求める気持ちは、歪んでいるのだろうか。自分でも分からない。由佳の代わりなのか?と何度も自分に問い掛けてみる。答えは出ない。それでも、俺は加速し始めた自分の心を止められなかった。
「今は少し休養しています。九月になったら、君の顔が見たい。真っ黒に日焼けした、元気な君の顔を見たい。その時には、俺も少しはまともになっていると思う」
俺は何度も確認したメールの文字を、もう一度読み返し、浅海の携帯へ送信した。そしてサックスを吹き鳴らすために、家を飛び出した。大学の狭く暗い部室を目指して。