アルムド




 開け放しておいた南向きの窓から、一瞬強い風が吹き込んできた。風は薄っぺらいカーテン(元はパステルグリーンだったが今は限りなく白に近いカーテン)をざっと舞い上げて、正午を少し過ぎたばかりの太陽を部屋に招きいれた。
 マスカラを落とし損ねた昌美の寝顔を、光と熱が通り過ぎていくと、昌美は不機嫌そうにガバと起き上がった。白地に赤い水玉模様の、ブラジャーとパンティーだけの姿は、恐らく仕事から帰ってきて服を脱ぎ、そのまま眠りに落ちたらしい事を物語っている。勢いよく起き上がったお陰で、昌美の足がアルムドの腰のあたりを蹴りつける形になったが、アルムドが目を覚ます気配はない。
「いつ帰ってきたの」
呂律の回らない口調で、ぼそぼそと問い掛けても、規則正しく繰り返される寝息は乱れる事がない。昌美はとっくの昔に自分の頭を外れて手元に転がっていた枕(もう枕カバーをつける事さえ止めてしまった、古い綿の枕)を、アルムドの顔に向かって投げつけた。
「……」
アルムドは無言でくるりと昌美の方へ寝返りを打ち、それと同時にパッと目を開ける。深いグレーの瞳に、一瞬前まで眠りの底へ沈んでいた人間の無防備さは、ひとかけらもない。
「なに?」
アルムドは抑揚の無い声で聞く。それはアルムドのルーツに思いを馳せるに充分なだけの説得力を持っていて、砂漠の国の音楽のように、昌美の心を不安にさせる。
「いつ、帰ってきたの」
昌美の声もまた高低を失い、強弱を失っていく。ただアルムドの瞳にさらされただけで、昌美は一人行き場の無い孤児に戻ってしまう。
「あさ、くじごろ、かな?」
アルムドは二回だけまばたきをして、そっと答える。アルムドは頭がいいけれど、流麗な日本語を操る、とまではいかない。会話に不自由する事はないし、昌美は英語もアラビア語も話せないから、彼を笑う資格は無いとわかっている。しかし、子供と話すときに感じるような、その言葉のたどたどしさに、今でもふっと頬がゆるんでしまう。
「また一晩中あそこにいたの?」
昌美は優しく問い掛ける。そうまるで、泥んこになって帰ってきた我が子に母がやんわり諭す時のような調子で。
 アルムドはゆっくりと一度だけ頷いて見せた。近所の廃屋の屋上で、一晩中星を見上げている事が、アルムドにはたまにあった。昌美も二時間ほどそれに付き合う事もあったが、あとは大抵、アルムド一人でそこにいた。アルムドがそこで何を思い、星を見る以外に何をしているのか、昌美は聞いた事がない。聞く必要もないと思う。この人には、私とは違う、ムスリムの血が流れている。そう思えば、アルムドのすることにいちいち関心を抱くのは馬鹿げていると考えて、昌美はいつも何も言わない。
 白いカッターシャツを着たままの、アルムドの胸にそっと手を添える。細く引き締まって無駄のない身体はいつもきちんと鍛えられている。その彫刻のような体躯のあらゆる場所に、ゆっくりと触れていくのが、昌美は好きだった。
 昌美の細い右手が、胸から腹へ、腹から腰へ、腰から股間へ、股間から太ももへ、確かめるように動いていくのを、アルムドは止めなかった。無感動に昌美のすることを見おろしている、そんな感じだった。昌美がカッターシャツのボタンを、片手で器用に外してしまっても、アルムドは表情ひとつ変えなかった。あらわになった男の身体に、昌美はゆっくりと口づける。浅黒くすべすべとした胸に、昌美の、口紅の残った唇が優しく触れていく。
 するとそれまでじっと動かなかったアルムドが、突然昌美の身体を下からぐっと持ち上げた。昌美の唇は、アルムドの胸を離れ、宙に浮いた形になっている。アルムドはじっと昌美の目を覗き込む。深いグレーの瞳には、遠い砂漠のオアシスさえ映っていそうだと、昌美はぼんやり思う。
「まさみは、だかれたい?」
アルムドの声がかすれながら問い掛ける。ごくりと唾を飲み込んで、上下に動いた喉元を、昌美はうっとりと眺めながら何も言わずに何度か頷いた。
 アルムドは昌美の身体を布団(一人分の敷布団)の上にそっと下ろすと、肩まである昌美のウエーブのかかった髪を、右手でぐっとつかむ。昌美の顔ががくんと上を向いて、アルムドの目をまっすぐにとらえる。
「まさみはきれい」
アルムドはそうつぶやいて髪の毛を離し、昌美の両手を押さえつけたまま、その胸に顔をうずめた。開け放した窓からは、また強い風が吹き込んで、浅黒いアルムドの背中に真っ白な昌美の腕と足が絡んでいるのを、太陽に見せつけていた。
「きみは、ぼくを、あいしている。うらぎらない。ね」
アルムドの低い声が昌美の耳元をくすぐっていくと、声にならない叫びをあげながら、昌美は深く頷いた。アルムドをそれを確認したように、冷静に昌美の奥へと突き進んでいった。



 昌美は十九歳だが、既に肉親と呼べる人間はこの世にいない。まだ乳飲み子だった頃に、両親とも交通事故で死んでしまった(と聞いている)。母親の妹だという人物のもとに引き取られたが、長ずるにつれて自分がこの家にいてはならない存在なのだと気付かされていった。勿論叔母にも夫があり、子供がある。二人の元気な子供を授かり、平凡な収入を得て、平凡な生活を送っている家庭には、一人のよそ者がどれだけ邪魔だったか想像に難くない。
 だから昌美は高校へは行かないと最初から決めていた。そもそも昌美を進学させようと思う大人など周りにはいなかった。中学三年の頃には、ろくに学校にも行かなくなっていたが、別に反抗したいからではなかく、単に自分の人生においては「学生生活」なんて何の飯の種にもならない事をよく知っていただけの話だ。私は英語や数学を学んだところで、それを発揮する場所から見限られている。私には私の生き方がある。そう思っていた。
 十五歳の時に、ひとつ年上の先輩に抱かれた。付き合っていたわけではなく、一緒に深夜まで遊びまわっているうちに、なんとなく安いホテルへ連れ込まれただけだった。初めて男の身体を受け入れた時は、痛いだけで他に何も感じなかったが、誰かが強く自分と言う存在を求めていると言う事が、ひどく心地よかった。事が済んでしまえば、ふいと身体を離して、また今度したくなったら会おうぜとでも言うような態度をとられても、自分を求めて乾いている男を深く受け止めるその安らぎを思えば、少しも寂しいとは思わなかった。
「俺のをしゃぶってくれよ」
そう言われれば、不器用に男の性器を口の中へ飲み込んだ。幼さの残る乳房を指先で、舌で何度も撫でられるうちに、自然と吐息が漏れるようになっていった。硬く狭く、閉ざされていた部分に、無理矢理指をねじ込まれるのは嫌だと言ったら、男は外側にある部分を丁寧に舐め始めた。恥ずかしいと思ったが、初めて感じる快感に、能がしびれたようになって、思わず声をあげていた。自分で意識しないうちに、身体の奥からゆっくりと湿って男を受け入れる準備が整っていく事を、その時知った。
「お前どんどんいやらしくなるな」
男は嬉しそうにそう言っては、アダルトビデオで見る全ての体位を試そうとでも言うように、何度も昌美に向かって射精した。昌美の身体は火照って、射精が終わってもなお萎縮していかない性器を、自らもう一度自分の中へ導きいれた事もあった。
 その男との間に愛情などと呼べるものがあったとは思えない。お互いに甘い言葉も、切ない視線のやりとりも、無邪気に笑いあう楽しみさえ、相手に求めようとは思わなかったのだ。それでも男は昌美を抱きたがった。その男が友人を連れてきて、「こいつにもやらせてやれよ」と言えば、昌美は受け入れた。その友人とするほうが気持ちがいいと思った。容姿はその友人の方が劣るけれど、男は寝てみないと価値がわからないものかも知れないなと、男の下で天井を見上げながらぼんやりと考えていた。男たちは繰り返し昌美を求めるようになった。

 昌美は、既にその頃から十人並み以上の器量を持っていた。小さな瓜実顔に、真っ黒な瞳が大きく輝いている。唇はぽってりと赤く、肌は透けるようだった。さらさらとした絹のような細い髪は、今では茶色に染めてパーマをかけているけれど、何もしなければ漆黒の河の流れのように美しかった。しかし昌美自身は、自分を美しいと思った事は一度もない。誰からも、そう、両親からさえも「かわいい」「大切だ」と思われた記憶の無い子供は、自分について必要なだけの自信を持つことを放棄してしまう。というよりもどうやってその自信を見つけるのか、その方法すらわからない。「綺麗」とか「可愛い」なんて、男が自分と寝たい時に無理矢理口にするお世辞でしかないと、昌美はそう思っている。じゃあ何故自分と寝たいと思うのか、そこのところは自分でも皆目見当がつかない昌美だった。
 それでも昌美は誰かに抱かれたいと思っていた。誰でもいい、自分の身体をしっかりと抱いてもらって、「気持ちいいよ」と囁かれて、そんな風にして一生過ごしていたいと思った。自分一人で生きていかなければならないと思った時、昌美はそうやって抱かれてお金をもらえるなら、と風俗嬢の道を選んだ。何の躊躇もなかった。罪悪感もなかった。第一誰に対して罪悪感を持てば良かったのだろう?
 昌美は中学を卒業してすぐ十六歳になったが、その時叔母の家を出て、風俗店に足を踏み入れた。自分で出来る限りの念入りな化粧をして、十九歳だと偽ったら、思いがけないくらいすんなりと、明日から来られるかと言われた。すぐにその風俗店で斡旋しているアパートに転がり込み、一人暮らしが始まった。
 昌美の身体は毎日違う客をとりながら、その度に実も蓋もなく濡れていった。甘い声は演技ではなかったし、吐き出す吐息は熱く、明日は顔も忘れてしまうだろう男たちの身体を、ぎゅっと締め付けて離さなかった。客として現れる男に恋をした事は一度もなかった。身体を開いて、何時間かを過ごして、客が帰ればゆるゆるとシャワーを浴びて、それでその男の余韻はすっかり流れてしまう。その繰り返しだった。
 男たちはしかし、そんな昌美に夢中になった。男たちは昌美が「自分だけに」こんなに感じているのだと勘違いするのだ。商売で体温を分け合った女が、こんな風に感じて乱れるなど、ほとんどの男が未経験だった。俺のテクニックでこんな若い可愛い子が、こんなに感じるんだ。男の自尊心がくすぐられて、それを「愛」だと思い込む男も多かった。
 昌美が始めて勤めた風俗店で、ナンバーワンの指名率を獲得するまでに二ヶ月もかからなかった。昌美は今まで見たこともないような数字が打ち込まれた貯金通帳を、何の感慨も無く見つめたものだった。ああこれでコンビニに行ってやきそばとおにぎりを買っても、明日の心配をしなくていいんだなあと、少しほっとしただけだった。
 そんな生活ももう三年を超える。始めに十九歳と偽った、まさにその年齢になろうとしていた。店は数え切れないくらい変わったし、今ではかさかさと肌が荒れ始めていたけれど、それでもナンバーワンと呼ばれる事に変わりはなかった。昌美には相変わらず、自分と寝たがる男の心はまるでわからなかった。


 家賃五万円のアパートは、六畳一間だし今にも崩れ落ちそうだし、クーラーさえついていない。昌美の収入ならもっとましなマンションを借りる事は可能だったけれど、そんな事には興味がなかった。一人で帰って寝るだけの場所に、何故執着しなくてはならないのか、さっぱり分からない、と昌美は思う。洋服にも持ち物にも、ほとんど興味がない。ブランド物の服に身を包んでも、仕事に行けばあっという間に裸にされてしまうのだ。ほとんど着る時間のない高価な服など、手に入れても少しも心は弾まない。昌美は携帯電話さえ持っていない。店からの連絡は固定電話で用が済んだし、自分の所在を気にかけて、追いかけてくるような知り合いなどほとんどいないのだ。
 そのアパートにアルムドが寝泊りするようになったのは、一年ほど前からだった。ある日昌美が仕事を十時に切りあげて(ガス会社から翌日工事に来ると言われていたので、早く上がって寝ておこうと思った)、店を出るとそこで、スーツ姿の男たちが風俗店の品定めをしていた。みんな高そうなスーツだなと何となく思った。ブランドに興味は無かったけれど、お客達に、高いスーツのなんたるかを散々自慢されてきた昌美は、なんとなくそこに投資された金額くらいは見当がつくようになっていた。
「ぼくは、かえるよ」
たどたどしい声が抗うように聞こえてきた。声の方に視線を移すと、一人の浅黒い肌をした男が店に背を向けて歩き出そうとしているところだった。
「おいおい、アルムド、これくらいいいじゃないか。アッラーの教えに反することなのかい?」
後ろからメガネをかけた男が、浅黒い肌の男の腕を捕らえて大声で言う。恐らく有名な企業に勤める、勤勉なサラリーマン達が酔いに任せて女を買いにきたのだと察しがつく。
「そうだ」
浅黒い肌の、「アルムド」と呼ばれた男が、じろりとメガネの男を睨みながら言った。
「アッラーのいしにそむくことだ。ぼくはかえる」
短く黒い髪に、グレーの瞳が異様に輝いていた。「アッラー」ってなんだっけ?神様だったかな?昌美は頭をめぐらせながら、男たちの姿を眺めていた。
「意志か。まあわかったよ。酒も飲まずに女を抱けって言っても無理だろうしな」
メガネの男は「アルムド」の様子に気圧されたようにやっとそれだけ言うと、仲間達の方へ戻っていった。アルムドはネクタイを外しながら歩き出した。何かをぶつぶつとつぶやいていたが、やがてネクタイを道に投げ捨て、店を選んで入っていこうとする男たちにむかって両手を振り上げた。
 丁度そこには昌美がぼんやり突っ立っていた。昌美の目がアルムドの目にとらえられた。アルムドはふっと手を下ろし、静かにうつむいて、それから目を上げて昌美を見た。昌美は思わず微笑んだ。申し訳無さそうな男の仕草が、少年のそれのように瑞々しく思えた。


「さっきのあれ、何?手をこうして振り上げて……」
昌美がアルムドのしていたように、ぐっと腕を空へ向けて伸ばして見せると、アルムドは困ったように笑って首をかしげた。
「のろいをかける、ぎしきみたいなもの」
「のろい?」
昌美は驚いてアルムドの顔を見て、そして弾けるように笑い出した。
「そんなかわいい顔した悪魔なんかいないわよ。似合わないからやめた方がいいと思う、呪いなんてさ」
肩をすくめたアルムドは、気を悪くする風でもなく、所在なげに手をブラブラと前後に振ってみせる。
「あなたはどこから来たの?」
昌美は歩きながら尋ねた。いかがわしい店の並ぶ通りを一本奥へ入った、薄暗い路地だった。ここから十二、三分歩けば、昌美のアパートに辿り付く。
「あめりか」
アルムドは抑揚の無い声で答えた。
「そうなの?アメリカ人には見えないな」
「ぼくはあらぶけいのあめりかじん。ごせんぞさまは、あらぶのくににすんでいたよ」
アルムドが苦笑いしながら昌美を見おろす。
「ふうん。じゃあ、なんで日本にいるの?」
なんで笑うんだろう、そう思いながら昌美はガードレールに腰掛ける。残暑にあえぐ東京の夜が、昌美のノースリーブの肩を撫でていく。
「しごとで。もうにねん、にほんにいる」
アルムドは昌美の疑問に気付いたかのように、笑いを消して真面目に答えた。
「そう。でも日本語あまり上手じゃないのね」
昌美が肩をすくめながらそう言うと、アルムドは絶望的なため息をついた。
「にほんごはむずかしいよ。ぼく、これでも、うまいほうだとおもっていた」
それを聞いて、昌美はクスクス笑い出してしまった。
「ああそうなの。ごめんね、じゃあきっと上手いんだわ。あなたの言ってること、全部わかるしね」
いつのまにかアルムドも昌美の隣に腰掛けていた。アルムドの唇に、小さな微笑が引っかかっている。
「あなたの信じている教えでは、女を抱いてはいけないの?」
昌美はアルムドの顔を覗き込んで聞いた。
「ちがう。たくさんのおんなをだいてはいけない、ということ」
少し考えた後、アルムドはそう答えた。
「お金を出して女を買うのも?」
「だめだ」
今度は即答だった。昌美は首をかしげる。
「じゃ、どうしてこんな所まで来たの?あなたの仲間はみんな楽しみに行ってしまったじゃない」
アルムドは激しく首を横に振った。
「ごはんをたべて、つぎのみせといわれて、つれてこられた。こういうところとはしらなかった」
「そう」
昌美はGパンのポケットから、つぶれた煙草のパッケージを取り出した。折れ曲がった一本に、百円ライターで火をつけるまでしばらく時間がかかった。一筋の煙を吐き出してから、昌美は隣のアルムドをそっと見た。アルムドは頭を上げて空を見上げていた。白く煙っている、黒にさえなれない夜空。
「私なんかと話したくないよね。私はそう言う女だから」
昌美はそう言って、さっと立ち上がった。アルムドは、空から昌美の顔へ視線を移した。
「そんなこと、おもわないよ。きみは、いやなひとじゃないから」
アルムドの言葉だけが、透き通っているように思えた。どんな雑音が百デシベルで鳴り響いたとしても、この声だけはいつでも聞き分けられると、昌美は思った。
「あなたはたった一人の人を抱いているの?」
アルムドは昌美の目をじっと見つめた。
「くににもどれば、いる。もどるまでは、だけない」
「あとどれくらいで戻れるの?」
「わからない」
昌美は溜息をついた。
「そのたった一人の人とは別れてしまえばいいわ」
アルムドが何か言いかけると、昌美は遮るように歩き始めた。
「私は確かに男に買われているけれど、あなたには売らないわ。私をあなたに、あげるわ」
くるりと振り向いて、昌美はそう言った。月明かりもかすむほどけばけばしい夜の灯りが、昌美の後ろへと流れていく。
「きみはわかい。そしてきれい。じぶんをうらなくてもいきていける」
昌美の後ろを追いかけて歩きながら、アルムドがそう言った。しかし昌美は振り返らず、首を横に振る。
「私は綺麗じゃないし、自分を売らなきゃ、明日のご飯も食べられないの。何も持ってないから」
アルムドの足が止まった。
「なにももっていないのに、きみを、ぼくに、くれるの?」
今度は昌美の足も止まる。アルムドの頭からつま先まで、ゆっくりと眺めて、そして微笑む。
「だってあなたは、私よりももっと何かを失っている。私よりたくさん、ね」



 アルムドの瞳を始めて見たときから、昌美は耐え切れないほどの焦燥感を感じていた。誰にもこの人を見せてはいけない。誰にもこの人を汚させてはいけない。そんな気持ちでいっぱいになっていった。この人は私が守らなくちゃいけない。理由など見つからない。ただアルムドを見た瞬間から、その思いに突き動かされていった。
 アルムドの昼間の姿は知らない。スーツを着て出て行くから、恐らく会社へ行っているのだろう。しかし昌美が朝七時頃帰宅するとアルムドが目を覚まし、八時にはアルムドの出勤時間がやってくるのだ。アルムドの仕事が貿易関係だとは聞いていたが、丸の内のオフィス街へ出かけていく事くらいしか、昌美は知らなかった。そしてまた大して興味もなかった。
 夕方に目を覚まして仕事へ出かける準備をする。昌美が出かける三時間ほど前になると、アルムドが戻ってきて、二人で抱き合ったり、簡単な食事をとったりした。二人の休みがあえば、近所の公園に出かけた。そこのベンチに腰掛けて、アルムドは小さなコーランを開き、昌美はその肩にもたれてうたた寝をする。夕方には、近所のスーパーで惣菜を買い込み、アパートで食事をとった。アルムドはコーランの教えの通り、アルコールは口にしなかったが、昌美がビールを飲んで、白い肌を桃色に染めていくのを、楽しげに眺めていた。上気した肌にアルムドの手が触れると、昌美の心はほとんど抑えがたい衝動に駆られて、アルムドの身体を欲した。アルムドの唇が、耳元に触れると、それだけで吐息が漏れた。丁寧に服を剥ぎ取り、首筋から順に、確かめるように舌を這わせるアルムドの髪を、昌美はくしゃくしゃとかきあげる。アルムドの両手が昌美の細い腰を掴んで、何度も深く突き上げると、肌は更に熱くなる。上気した頬を、アルムドの頬にすり寄せながら、「もう一度抱いて」と囁くたびに、アルムドは昌美の身体を愛撫しながら、昌美の中へ入っていった。
 どんなに過酷なセックスを客から求められて、そしてそれに応えた後だとしても、アルムドの前では、少しも躊躇無く抱かれたいと思う昌美がいた。アルムドには何度でも繰り返し抱かれたいと思った。それは今までには一度も思った事の無い事だった。仕事では誰に抱かれても、その余韻が身体に残る事などなかった。しかしアルムドに愛された余韻は、眠っても覚めても、昌美の身体を支配し続けるのだった。その気持ちをなんと呼ぶのか、昌美には分からなかった。
 アルムドは昌美を無表情に抱いた。時に激しく、時に優しい行動とは裏腹に、その表情は変わらない。最後に果てる瞬間だけは、眉根を寄せて少しだけ切ない顔をする。それだけが、昌美には救いだった。それが無かったら、自分とのセックスを嫌がっているのではないかと思えてしまうくらいだった。
 アルムドは昌美を抱くたびに言った。
「きみは、ぼくをあいしてる。うらぎらない。ね」
昌美はアルムドの首にしがみつきながら、深く頷いてみせる。すると安心したように、昌美を突き上げて、やがて二人で暖かい闇に落ちていく。アルムドのその言葉は、風俗嬢の自分が、本当に心を開いているのはアルムドに対してだけだと確認したくて口をつくのだろうと、昌美は思っていた。そう思うといつも胸が苦しくなった。アルムドはコーランの教えに背き、私のような女を抱いている。それはアルムドが昌美を愛している証しだと思った。「ぼくはきみをあいしてる」とは、一度も言ったことのないアルムドだったが、その事がかえって昌美の心を激しく欲情させた。
「私はアルムドを愛している」
声に出してつぶやいてみると、それは気恥ずかしくなるほどありふれていて、馬鹿げていて、でも、暖かかった。



 冬がやって来た。部屋にいても、息が白く凍るほどだった。小さな電気ストーブとコタツが昌美の部屋の暖房を買って出ていたが、コタツにうずもれていなくては、指先がかじかんでしまう日が続いた。
 もうすぐアルムドが帰ってくるかなと思っていると電話が鳴った。
「もしもし」
アルムドからだった。
「まさみ、ほしがきれい。そとへでて」
それだけ言ってぷつんと切れた。昌美はあきれて受話器を眺めていたが、諦めてコートをはおり、外へ出た。
 案の定アルムドはアパートのはす向かいにある、酒屋の前の公衆電話から電話をしていたようだ。アルムドもまた、携帯電話を持っていなかった。酒屋の影からぬっと現れたアルムドに
「こんなに寒いのに、星なんて。私これから仕事だよ」
と唇を尖らせて見せた。いつもなら穏やかに笑うはずのアルムドは、顔を強張らせたままだった。
「どうしたの?」
問いかける昌美を目で制して、アルムドはゆっくり歩き出した。アルムドの行く先は分かっている。いつものあの廃屋だ。三階建てのビルの外階段は、フェンスさえ乗り越えてしまえば自由に上り下りできた。廃屋の屋上という隠れ家を見つけたのはアルムドだった。
 屋上のしんとした空気に包まれながら、アルムドは飽きることなく夜空を眺めた。遠い砂漠の、降るような星空に見守られて生まれたのだろうかと思うほど、アルムドは星を見るのが好きだった。汚れた空に、あえぐように浮かび上がった頼りない星明りでも、ひとつとして見逃さないというように、何時間でも目を凝らして過ごす事があった。
 アルムドはフェンスにもたれて、コンクリートの床に座り込んだ。しかし星を眺めるわけでもなく、うつむいて、何かをしきりに考えているようだった。
「どうしたの?」
昌美は寒さに震える声で聞いた。東京でも冬はこんなに星が近いんだな、と思う。
「まさみ」
アルムドに呼ばれて目を向けると、アルムドは手に何か光るものを持っていた。
「これ、きみに、あげる」
「なに?」
昌美が恐る恐る近寄っていくと、その手に握られていたのは、飾りのついた短剣だった。コーランに並んでいたのと同じような、複雑な文字が掘り込まれ、色とりどりの石が埋め込まれている。鋭い切先が銀色の光を放って凍りついている。昌美は思わず足を止めて、じっとアルムドを見た。これは……どういうこと?
「何故そんなものを?」
「もういらないから。きみにあげる」
「いらないって……」
アルムドは、やはり石や文字で飾られた鞘に短剣を戻すと、そっと昌美の方へ押しやった。
「こんなもの持っていたの、知らなかった」
昌美はなるべく平静に聞こえるようにそう言った。
「ぼくは、てきがおおいから」
アルムドは寂しげにぽつんと言った。子供が親に悪戯をとがめられた時のような、心許ない声だった。
「敵?何言ってるの?」
昌美は凍える頬を無理に引き上げて笑ってみせる。そしてアルムドの隣に腰掛けた。
「私が守ってあげる。そんなものなくたって」
アルムドは顔を上げた。
「おわかれだよ」
アルムドの言葉が、すっと軌跡を描いて通り過ぎた。錯覚だと昌美は思った。それでも確かめる為の言葉は口をついて出てくる。
「なんで?どこへ行くの?」
「アッラーのみちびくばしょへ」
時間が止まった気がした。アルムドのいう意味が、昌美にはよくわかった。どこからか聞こえていたカラオケの音も、タクシーのクラクションも、何もかもが遮断される。
「何をしようとしているの」
昌美は夢中でアルムドの肩を揺さぶっていた。心臓が早鐘のように打ち付けているのを、抑える事ができない。
「アッラーのいしをとげることがだいいちだ。それがこのせかいをすくうみちだ。アッラーのくにをつくる……」
昌美の勢いに負けじとそこまで言って、そして、アルムドの右目から、ぽつりと涙が落ちた。そのしずくは、昌美の手の甲に落ちてきた。昌美はそっと自分の手の甲に触れた。冷たく、そして暖かいもの。私の身体に流れる熱いもの。
「死ぬつもりなの?」
「それがぼくのみちだ」
「それがアッラーの意志なの?」
「そうだ」
「あなたはそれで幸せなの?」
昌美は短剣を手にとった。呪文のようなアラビア文字。呪詛によって導かれたかのような、暗い暗いこの人の人生。錯覚ではなかったのだ。この人はたくさんのものを失いながら、私の前に現れた。そして今、自分自身をも失おうとしている。
「教えは、人を救うためにあるものじゃないの?教えの為に、人がいるわけではないでしょ?」
アルムドが顔を上げた。左の目からも、しずくが落ちるのを、昌美は綺麗だと思いながら見ていた。
「あなたの道は間違っている。あなたが幸せになるために、アッラーはいるはずよ」
昌美の目からも涙が落ちてきた。こらえてもこらえても、涙が瞳に留まる事はなかった。
「私を抱いて、幸せにするために、あなたはいるのよ」
昌美は両膝をついて、アルムドの身体を抱きしめた。
「あなたは私を愛してる。私を裏切らない。ね?」
アルムドの慟哭が、昌美の胸を通して、全身に響き渡った。ああ愛している。そう、愛し合っている、私たちは。時間も国も超えて、不幸が二つ寄り添って、幸せになろうともがいている。
 二人はそのまま抱き合った。ぽつぽつと見える星たちに囲まれながら、お互いの身体を貪った。アルムドの手が、乱暴に昌美のコートを開き、セーターの裾をまくりあげてしまっても、昌美は不思議と寒さを感じなかった。痛みのような快感が、二人の間を駆け抜けて、互いの目を見つめあった瞬間に、同時に涙がこぼれた。冷たいコンクリートの壁の感触を背中にして、昌美はアルムドの身体を受け入れた。
「きみをあいしているよ、まさみ」
痙攣を繰り返しながら上りつめていく途中、昌美の耳にそっと吹き込まれた言葉は、限りなく暗く、優しかった。
「裏切らない、ね?」
昌美の声がかすれながら応える。昌美の中がアルムドの熱い滴りで満たされると、そこで記憶が曖昧になった。何も恐くないと思った。



 昌美が目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。起き上がると微かに頭が痛む。アルムドの姿は無い。時計に目をやると、昼の十一時。アルムドは仕事へ行ったのだろうか。
 遠くからパトカーや救急車のサイレンが聞こえる。カーテンを開けて外を見ると、東の方角が、真っ黒な煙で覆われている。
(丸の内……?)
ぼんやりとその方角を見ながら思う。そして息を飲む。テーブルの上には、あの短剣がきちんと置かれている。
 昌美はその途端、部屋を飛び出した。鍵もかけず、サンダルをつっかけたまま走り出した。表へ出ると、酒屋のテレビから臨時ニュースが流れているのを見た。昌美は足を止めてその画面を見つめる。緊張した面持ちのアナウンサーが、声を上ずらせて、何度も原稿を読み間違えている。
「今朝九時半頃、東京都丸の内のE……失礼しました、Yビルが爆発しました。四十、えー、四十五階建てのビルは既に崩壊状態になっており、生存者などについては全く分かっておりません。火がかなりの勢いで回っており、丸の内が、丸の内全体が、火の海となっているもようです。えー、すでに、政府には前日から爆破予告があったとの……えー、ただいま入ってまいりました情報によりますと、イスラム原理主義による、テロであるとの声明文が発表されたとの事です。自爆テロ、ということで、数人のイスラム人男性が、爆弾を身体に巻きつけた状態でYビルに飛び込んでいったとの情報が……」
昌美はニュースの声を振り払い走り出す。アルムドは生きている。裏切らないと約束したもの。

神でも仏でもいい。私たちを幸せにするために、そこにいるのでしょう。

アルムドを救ってください。

全ての人を救ってください。

私にとってアルムドはかけがえが無い。ただひとつの守りたい命なのです。こんな気持ちは、生まれてからあの人に会うまで知らなかった。
だから、わかるのです。あの爆発の下にいる人たちにも、きっとかけがえの無い誰かがいる。そしてきっと誰かに愛されても、いる。


かけがえのないものを失ってまで、あなたの道を押し付けられるのは、ごめんなの。


昌美の足は、アルムドが勤めていると言った、丸の内のYビルに向かってスピードをあげる。アルムドの姿を求めて、息を切らせて走り続ける。
「アルムド」
昌美の声は、東京を揺さぶるように、地を這い空へ昇っていく。