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baby's breath


 目覚めると、ママは自分のお腹をさすりながら、26年間生きてきた中でこんなに醜く膨れ上がったのは初めてだと、恨みがましい声でつぶやいていた。ママのお腹は、育ちすぎて畑に放置された真夏の西瓜のように、こんもりと膨らんでいる。
 ごめんね、ママ。
私はぐにゃりとした未完成の白い手足を、精一杯小さく縮める。私が長ずるにつれて、ママのお腹もどんどん膨らんでいるのだ。
 透明な液体に満たされたこの暗く温かい場所に、ぼんやりとたゆたうだけの私には、輪郭の判然としない音に頼る以外は、外の世界に触れる事が出来ない。しかしその情景は、ママの五感を通して、私の心に鮮やかに刻まれていく。細い臍の緒は、海草に絡みつくタツノオトシゴのしっぽのように、私とママを一つに結んでいて、それは体だけの事ではないと、私にだって分かっている。
 私の意識は、神様のいる国とこの暗いゆりかごの中を、特に何の法則も持たずにさまよっている。ひとたび眠りからさめれば、暗いゆりかごに飽きて、ふいっと神様の国へ意識が戻り、そこから地上の風景を見下ろしていることもよくある。
 私は今、ひとつの「形」をなして、「何者か」になろうとしているけれど、それでもまだ私はどこへだって行ける。天国へも地獄へも。それでも私が神様の国へ行ったきり戻ってこないというような事がないのは、ママの心が私をぎゅっと抱きしめているから。「本能」は私を形にしていくし、私はそれに逆らわない。温かな眠りは私を大きく育てる大切な糧なのだ。
 その眠りをとかれて、ぼんやりと目覚めたのは、ドクドクと不穏な音が私を揺さぶったせいだと気付く。ママの心臓の音は、理性を見失ったトラックのように暴走している。その乱れは、私の頭を揺さぶり、やがて激しい血流を私に送り込んだと言うわけだ。私は、ほんの少しだけ上がったママの体温のわけを知るために、暗闇で耳をすます。耳鳴りの中で、なんとか本当の音を知りたいと願うように、なるべく自分の頭を動かさずに、音に心を集中させる。渇きに似た感情を覚えて、思わず口をぽかりとあけると、私を包む羊水が、舌に触れ喉を通り肺を巡って鼻から抜けていく。ゴボッと言う、かすかな音を聞いた途端、ママの心も乾いて水を欲しがっていると、唐突に気付く。
 ママはきっと眉間に皺を作って、唇をきゅんと結んでいるに違いない。
「そんなの仕方がないでしょう。子どもが生まれるって言うのに、何をくだらない事言ってるのかしらね、この子は」
 少し離れた場所から、低く柔らかな調子で聞こえてくる声。深い色をたたえた声のトーンが、羊水を通すと更に暖かみをまして伝わってくる。その声の主が、ママの「ママ」らしいという事は、私にも分かっている。その声が聞こえてくると、ママの心臓が穏やかにリズムを整えていくのだ。私は秀でたおでこを少しだけ持ち上げる。臍の緒から送られてくる酸素の量がぐんと増して、私の体からふんわりと力を奪うのだ。その心地よい脱力の中で、またママの声を聞く。
「だって最近、宏樹も冷たいんだもの。大きいお腹抱えてうんうん言ってる私に、女の魅力なんかもう感じてないのよ。」
 ママは椅子の背もたれに体をあずけながら、そう言った。上の方でママの肺がザーっと大きな音を立てて縮んだのは、溜息をついたからなのだろう。
 オンナノミリョク。私は綺麗にそろった小さな指を、ゆっくりと開いて、ママのお腹の内側を撫でたいと思う。ママは素敵だよ。ママ、大好きよ。
「妊婦のうちは、女の魅力なんて事言ってないで、自分が母親になる準備の事だけ考えなさいな。女の魅力なんてその後で考えればいいでしょう」
 ママのママもほうっと溜息をついた。今、神様の国からママを見下ろしたなら、大人の顔を放棄して、拗ねた少女そのものに違いない。
 ママは私のこと、好きじゃないのかしら。言いようのない焦燥感に駆られて、私は思わず足をバタバタと動かしてしまった。ゴムのように柔らかな足の甲に、水の抵抗が少しだけかかるけれど、子宮を揺らしてママを驚かすくらいには、私は成長しているのだ。
「あっ、蹴ってる。もう、本当に乱暴な子。絶対宏樹に似た男の子に違いないわ」
 ママはそう言いながら、自分のお腹をそっと撫でる。私の右足が、かさこそと音を立てながら、ママのお腹の上から優しく撫でられる。まだ一度も直に触れた事のない、けれど、一番大好きな手の感触。そうして皮膚を隔てて触れ合った後には、必ず、甘いキャラメルのような感情が、ママから私へなだれ込んでくるのだ。その感情にくすぐられれば、わざと膨れっ面を作って、
「違いますよう、ママにそっくりの女の子なのよう」
 と言ってみたいけれど、当然羊水の中には、言葉なんて存在しない。開いた唇から、ごくりと羊水が入って出て行くだけだ。
「あなたも相当暴れたわよ。臨月には毎日お腹にあなたの足の形がぼこぼこ浮かび上がって、こりゃ絶対男の子だと思ってたんだけど」
 ママのママがそう言って、湯飲み茶碗をカタリとテーブルに置いた音がした。そしてその言葉を聞いたママの心臓は、ドックンと一度だけ大きく波打って、それからフツフツと震え始めた。ママのくぐもった小さな笑い声が、ゆりかごを揺らす。その響きに揺られていると、なんだか私までおかしくなってくる。するとママは、
「ねえ、聞いた? あなたと私はよく似ているらしいわ」
 と、皮膚を介して私に話し掛けてきた。
 そうよ、私はママにそっくりな、かわいい女の子なのよ。
 私は唇の両端をきゅっとあげて、やわやわと両足をかいてみる。ママの手がゆっくりとお腹を撫でている。しかしその穏やかな瞬間を通り過ぎると、臍の緒から、さあっとアドレナリンの匂いが漂ってきた。そして、突然強い調子で、ママの声が私の身体中を駆け巡った。
「妊婦なんて、もううんざりよ。お腹が大きくなって歩くのも大変だっていうのに、電車じゃ誰も席なんか譲ってくれないし、そればかりか邪魔だなって言わんばかりに溜息つかれたり。宏樹だって、病気じゃないんだからとか言って、最近じゃちょっと家事を頼むとすごく嫌そうな顔をするのよ。女って損ね。なんで子どもを生むのは女の仕事なのかしら」
 私はもう一度眠りにつきたいと思った。こんな風にママの心が乱れる時、私はたまらなく頼りない気持ちになってしまうのだ。ここから出てママに会うべき日が、一体幸せなのか不幸せなのか、判断がつかなくなってしまうのだ。
 ドックンドックンドックン。ママの心臓の音にだけ、耳を済ませていればいい。私は生まれていいのだと、その心音だけが言ってくれるから。
「子どもはいいもんよ。生んでよかったと必ず思うから、もう少し我慢しなさいな。あんた最近少し疲れてるのよ」
 ママのママが、やんわりと声をかけた。私は右手にはえた、小さな親指を口元へもっていく。まだ歯のはえていない口の中で、親指をそっと吸うと、段々眠くなってくる。
「少しゆっくりしなさい。色んなこと義務みたいに感じていると、そのうち参っちゃうわよ。育児ノイローゼになんかなったら目も当てられないし」
 ママのママに慰められて、アドレナリンの匂いは段々と消えていった。ママの暖かい手が、もう一度、お腹の上から私を撫で始める。
「そうね。この子の母親なんだもの。少ししっかりしなくちゃね」
 ママの芯の通った声が聞こえてくると、私の体はふんわりと楽になった。
「ごめんね」
 羊水の中に、ぼわんと響いたママの声が私を包み込むと、小さく縮めていた手足がふっと水に漂い、なんだか急に眠くなって、私はすうっと意識を失っていった。

 トン、トン、トン、と、ゆりかごがゆっくり上下に揺れている。私はその振動で目を覚ました。遠くから何かを叫ぶ大きな声や、明るい音楽が聞こえてきて、ある瞬間に、パタッと途切れる。それで私はママがスーパーマーケットを出たところなのだと理解した。スーパーの自動扉が、店内の喧騒を遮断すると、ママの肺を通った新しい空気が、臍の緒を通して送り込まれてきた。ママのママの家から帰る途中に、今夜のお夕飯の買い物をしたのだろう。ママは私が宿ったお腹を突き出して、ゆっくりゆっくり歩いていく。トン、トン、トン。微妙に揺れるゆりかごの横で、かさかさとビニール袋のすれる音がする。
「さあ早くおうちへ帰ろうね。お外はいやね。のんびりしようね」
 ママがぼそぼそと私に話し掛けてくるのを聞いて、私は足をばたつかせて応えようとした。けれど、ママの体からまたアドレナリンの匂いが漂ってくるのを感じて、動かしかけた足を止めた。バスに乗っている時にでも、またいやな思いをしたのかもしれない。
 そうだね、おうちへ帰ろう。そして優しいママと二人だけになりたい。
そう思いながら、私はくるりと体を丸めて子宮の奥に寄り添う。しかし、その言葉とは裏腹に、ママの歩く速度が段々遅くなっていった。トン……トン……トン。一体どうしたんだろう?
「危ないわね、あの子。何してるのかしら」
 ママのいぶかしげな声が聞こえた。私に話し掛ける時の甘い調子ではなく、何かに気をとられて思わず独り言を言ってしまったというような声だった。私は好奇心にかられて、体をくっと折りたたみ、意識を神様の国へと放った。
 一瞬の空白の後、ママのいる町の様子が見えてくる。ママの視点でもなく、かといって空の上と言うような遠い場所でもなく、また視覚と言うよりは、脳の中に直接画像が送られてくるような、不思議な状態なのだ。
 ママはとうとう立ち止まって、すぐ側のT字路から見える国道の方を眺めている。ママの視線の先には、紺色の制服姿の少年が、びゅんびゅんと車が通り過ぎる車道側に体を突き出す形で、ガードレールに腰掛けていた。少年に気付いた車は、慌てて左側へ大きくハンドルを切るものもあった。少年がガードレールから立ち上がって一歩踏み出せば、スピードの早い車は止まりきれずに少年をはね飛ばしかねない状態だ。ママはその少年の横顔を見つめているのだった。
 少年がぶらぶらと足を動かすたびに、私までひやりとした。一体何をしているんだろうね、あの子、とママに話し掛けるように、ママの方を見下ろす。すると、ママのすぐ後ろから小さな自転車が三台スピードをあげてやってくるのが見えた。「チリンチリンチリン」と、けたたましい音が鳴り響く。子供の全体重をスピードに変えて走ってきた自転車は、とてもママの手前で止まるようには見えず、私ははっと息を飲んだ。私の意識は、さっとママのお腹の中へ降りていった。
 ママが後ろを振り返ろうとしたのと、がくんとゆりかごに大きな衝撃が走ったのは同時だった。ガシャガシャとビニールの買物袋が投げ出される音がする。
「わあ!」
 幼い嬌声が聞こえたかと思うと、ざあっと自転車が通り過ぎていく気配がした。その途端、ゆりかごは荒れる海を走る小さなヨットのように、上下に大きく揺れた。目の前にある臍の緒がゆらりゆらりと、普段ではありえないような振れ方をしている。ママの心臓の音が一度、ドク、と鳴って、しばらくたってまたドクといい、あとは血液がざーっと流れていく音に変わった。小学生の乗った猛スピードの自転車は、結局止まりきれずにママの体をかすめて、そのまま通り過ぎて行ったらしい。
 ママ。ママ。痛い? 私はママの激しい血流に圧倒されて、身体中が火照って仕方なかった。
「……クソガキ!」
 ママの唇から泣くような声が吐き出される。
 大丈夫? ママ、大丈夫なの?
 ここは昼間の商店街近くで、人通りだってあるはずなのに、誰もママに声をかけてくれない。
 ああ誰か。ママを助けて? ママはどうなっているの? 気持ち悪いの? ママ!
「ああ、ごめんね、ごめんね。痛くない? 大丈夫?」
 ママの声が思わぬほど近くで、聞こえてきた。きっと体を折って、お腹に顔を近づけているのだろう。ママの手のひらが弱々しくお腹を撫でている。
 羊水の中で私は、頭をそっともたげ、足を左右交互に泳がせ、両方の手のひらを開いたり閉じたりしていた。私には何もしてあげられない。ママに「大丈夫よ」と信号を送るのが精一杯で、ママを助け起こす事なんて出来やしない。
 絶望をお腹に抱えたママの右側から、ハタッ、ハタッとスニーカーの軽い音が近付いてきた。そしてママの前で立ち止まり、
「あのう。大丈夫ですか」
 と声をかけてきた。その声はパパよりも随分若い、恐らく十代の少年と思われるぶっきらぼうな男の人の声だった。ママの呼吸がお腹から離れ、その声の主を見上げたのがわかった。
「具合悪いですか。怪我とかしました?」
 相変わらずぶっきらぼうなまま、少年がママに聞いている。その時ママの肺がしゅっと鳴った。何かに驚いている様子だった。
「いいえ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけだから」
 ママの声は、ママのママと話しているときとは違って、一生懸命平静を装っている。それでも、血流がふいに速度を落として、心臓の音が一定に保たれ始めたところを見ると、ママは少しほっとしたのだろう。私もママを助けてくれる誰かが現れたので、安心してほうっと羊水を口から吐き出した。
「あ、ごめんなさい、ありがとう」
 ママが慌てて言う。がさっ、がさっと言う音がぼんやりと聞こえるのは、少年が投げ出された買物袋の中身を拾ってくれている証拠だろう。かさっ、と言う乾いた音はだしの素の箱。きゅきゅ、と言う発泡スチロールの音は特売だったお魚のパック。少年の手からママへ手渡される、小さな振動が、ママの右腕から私の体へゆらゆらと伝わってくる。
「これ、割れちゃってますけど」
 少年の声とプラスチックのケースをパリパリと持ちあげる音が同時に聞こえた。どうやら卵が割れてしまったらしい。
「そうね、仕方ないですね、卵だもの」
 ママは苦笑いしながらそのケースを受け取った。ママと少年の溜息が重なる。透明の液体がねっとりとアスファルトへ落ちていき、それを、形を失った黄身の部分が追いかけていく様子を思い描いて、思わず手を伸ばし、食べられる運命だった胎児を受け止めたくなる。ワタシトオナジ、と、つぶやきながら。
 少年は次の商品を手にして、しばらく黙っていた。ママに手渡す様子がないのを気にしていると、ママが慌てたように、
「いやだ、恥ずかしい」
と言って、小さな笑い声を上げた。からころと軽い音がして、少年の手からママの手に渡されたそれが、おまけ付のキャラメルの箱なのだと、私にもわかった。ママはおまけの入った白い箱と、キャラメルの入った赤い箱の組合せで売られている、その「キャラメル」が大好きだった。よく四個も五個もいっぺんに買ってきては、パパに溜息をつかれている。
 パパの前では、
「だってこれが一番美味しいのよ。子供の頃から食べてるんだもの」
 と、胸を張って言うけれど、多分少年の前で、その子供っぽい食べ物の趣味がばれてしまうのは、ママだって恥ずかしいのだろう。そして、白い箱から現れる、プラスチックの自動車や、動物のマスコットや、ガラスの指輪なんかを、丁寧に飾り棚に並べている事は、絶対に知られたくないのだろう。
「袋破れてるから、持っていくの大変かな」
 少年は、キャラメルの事には触れずに、ぼそぼそとそう言った。すると、ママは、
「大丈夫、うちはそのマンションだから」
 と笑いを含んだ声で答えた。あと50メートルも行けば、家につく。そうして笑って見せながら、ママの体から塩辛い液体が流れ込んできた。
 ママが泣いている。
ママの目からぽろんと涙が落ちる光景は何度も見た。神様の国から、そんなママを見ていると、とても悲しくなって、私はいつもゆりかごにさっと戻ってくる。ドクン、ドクン、とママの心臓が揺れるたびに、塩辛い液体は私にも流れてきて、ママの体にしがみつくように体を丸めてみる。ママの右手がざっと音を立てて、動いたのは慌てて涙を手の甲で拭ったからだろう。その様子も見たことがある。勝気なママの、涙の隠し方。それでも、そのしずくは、少年に見られてしまったようだった。
「大変なんですね」
 少年はおずおずとそう言った。最初に声をかけてきたときよりも、ずっと子どもっぽい声に感じられた。
「ごめんなさいね、私ったら」
 ママが恥ずかしそうにそう言って、鼻をすする音がした。私はママの感情をなだめるように、ゆっくりと頭を上下に振る。
 ママ、泣かないでね。
「あなた、さっきあそこに腰掛けていたでしょう」
 ママは立ち上がることもせず、ずるずると何かで鼻をかみながら、照れ隠しのように隣に居る少年に聞いた。
 ああ、さっきガードレールに腰掛けていたあの少年だったのか。
 ママが少年の顔を見て驚いたわけが分かった。たった一人で国道に突き出した足をぶらつかせている少年が、まさかママを助けてくれるなんて。少年の、ハタッ、ハタッと言う足音が、目の前のガードレールに近付いて、そこへ腰掛けながらこう答えるのが聞こえた。
「見てたんですか」
「あら、足けがしてるの?」
 ママが、思わず、といった感じで少年に尋ねる。ハタッ、ハタッという不安定な足音は、少年が足を引きずっているせいなのだと、ようやく私にもわかった。
「いや、小さい頃に病気して、右足切断したんです。これ義足」
 少年は、何の感情もない声で言った。少年の足がガードレールに当たる、カツンカツンと言う冷たい音が響いてくる。
「そうだったの」
 ママはそのあとは何も言う言葉を思いつけないようだった。こんな時何を言えばいいかなんて、恐らく誰にも分かりはしない。
「俺、そこの小学校に通ってた」
 少年は、唐突にそう言った。マンションのはす向かいに小さな公園があり、その後ろに小学校があるのだった。ママの顔がこくんと上下に揺れて、ほっとしたような声が、じんわりと聞こえてきた。
「そうだったの。じゃあ割とご近所なのね、私たちは」

 ゆうやけこやけのチャイムが鳴り始める。もう夕方の4時なのだ。玉ねぎをいためる匂いがどこからか漂ってくる。私はママのお腹の中で時を数えてみる。もうすぐパパが帰ってくる。
 ハッハッハッという激しい息づかいと、チャッチャとアスファルトを引っかく音が近付いて、やがて遠のいていく。散歩に連れ出してもらった犬が、飼い主を引っ張って通り過ぎたのだろう。
「あなたは高校生?あんなところで何をしていたの?」
 ママが雰囲気を変えるように、悪戯っぽい声でそう聞くと、少年が首をすくめる気配がした。
「自殺」
 その声が羊水の中に染みこんだとたんに、ママの心臓が大きく波打った。
「本当?」
 ママの喉がごくんと音をたてる。ママの心が何故こんなに不安そうに波打つのか、私には今ひとつ理解しきれないけれど、それがあまりいい言葉ではなかったのだけは想像がつく。
「嘘ですよ、すいません」
 少年の明るい声が、ママの滞った体液を、再び順調に戻した。
「嫌だわ、そんな冗談は。あんな危ない事、しない方がいいわよ」
 ママの声もつられて明るくなる。私はほっとして、それからもう一度少年の顔を見てみたいと思った。
 体をくの字に曲げて、神様の国へ。額の辺りがじんと熱くなり、外の世界の光がぼんやりとやってくる。
 ああ、いたいた。ママと、そして、背の高い少年の姿。
ぼそぼそと話すのは、背中を丸めているからかも知れない。ガードレールに腰掛けた姿は、長い手足を持て余しているようにも見えたが、その片足が義足なのだと思うと少しだけ心が軋んだ。
「今時の高校生は優しいわね」
 ママが少年の顔を見上げてそう言うと、少年は顔をしかめて頭を横に振った。
「さっきのは、あのガキどもが、あんまりひどかったから」
 少年が「ガキ」と言ったとき、ママが微妙な角度で肩をすくめた。多分、さっき自分が口にしてしまった「クソガキ」と言う言葉を思い出して、恥ずかしくなったのだろう。私はママの、こんな単純なところが大好きなんだ。
「私こんな風に今お腹が大きいでしょう。でも、誰も助けてなんかくれなかったもの。結構世間は冷たいなあって思ったのよ」
 ママは冗談めかしてそう言ったけれど、本当に寂しかったのだろうなと、私には分かる。きっと、一人でおいおい泣き出したかったに違いない。
「もうすぐ生まれるんですか」
 少年がそう聞いた。視線はじっと私の居るお腹に注がれている。
「うん。もうあと一月もすれば」
 ママはお腹に手を当ててそう答える。ママ。あったかい手。神様の国にいても、その温かな感触は私を優しく愛撫する。
「子どもなんて面倒じゃないっすか?」
 思いがけない冷たい声で、少年がそう聞いた。色とりどりの絵の具で描かれた風景画を、躊躇なく黒いマジックで塗りつぶしていくような、とりつく島のない声だった。ママの肩がぴくんと震える。
「俺は小さい頃からこんな足で、親に迷惑かけてきたし、そうでなくても頭も大してよくないし。いるだけ面倒な存在だから」
 投げやりな声には、笑いが含まれている。絶望の中で、その笑いは一番冷たい。
「さっきの、キャラメルのおまけみたいなもんだと思う、俺なんて。しばらくは珍しくて面白がられて、だけど使い道なんてなくて、最後はそこにいるだけでも面倒な存在」
 少年の小さな声は、私をひどく不安にさせた。
「面倒か……」
 ママがつぶやいた声もまた、終わりのない冬のように暗い。ママ。私は叫びだしたくなる。
 ママ。私は面倒な子どもですか?私は生まれてきてはいけない子どもですか?
 私のちっぽけな体は、ママが望めばいつでも神様の国へと押し戻される。私はこの命が潰えてしまうのが恐いんじゃない。ママに、面倒で生まれてきてほしくない子どもだと思われるのが一番恐い。白々と明けていくあてすら無い夜の闇は、私のゆりかごの暗さに似ている。
「ううん。面倒じゃないわ」
 ママは明るくそう言った。引っかかっていた時計の針が外れて再び規則正しく動き出すかのように、世界は音を取り戻す。
「自分がちょっと不便になったら、ついつい愚痴言っちゃうの、私って。なんでみんな私が大変なの、分かってくれないの?って」
 ママは女子高生のようにぺろっと舌を出した。きっとパパが見たら“かわいい”と言うに違いない仕草で。
「でもみんなこんな思いしながら、子ども産んで育てるのよね。私だって、自分が妊娠するまでは、ゆっくり歩いてる妊婦さんに『邪魔だなあ』って思った事あるわ。自分で経験しなきゃわかんないことってあるわね」
 ママがママになっていく。私は急にママのお腹が恋しくなって、神様の国を降りた。ママの鼓動が私の鼓動に重なる。私の心がママに伝わる。
「駄目なママだわ、ごめんね、って毎日謝ってるの。でも頑張るからね、ごめんね、って」
 カラスの羽音が木々をざわつかせる音がした。もう誰もが家に帰る時間なのだ。鳥は空を渡って。人は電車に乗って。子どもは自転車を飛ばして、大好きなママの元へと。
「確かにちょっと不便なのよ。だけど、私この子が欲しかったの。だから授かったの。この子が生まれてくれるだけで、私は多分すごく感謝するんだと思うの。だって私のところへ来てくれたんだもの」
 ママの声は、透き通っていた。それが嘘なんかじゃないと、私に教えていた。
「あなたのお母さんだって同じだと思うわ。あなたが生まれてくれただけで、多分、すごく嬉しかったのよ。あなたがどんな風だとしても、お母さんも、それからお父さんも、あなたを面倒だなんて思ってないはずよ。大人だって、失敗もして、色々反省しながら、一生懸命子供を育てるのよ」
 ママの柔らかな母性が、私の全身を包んでいる。キャラメル。甘いその愛情が、私のお臍からゆっくりとじんわりと広がるのだ。私はもう何もいらないと思った。溢れてくる名前のつかない感情をもてあまして、思わず足を大きくばたつかせた。ママの子宮が大きく揺れて、私は大声で笑いたくなる。
「あ、また蹴ってる」
 ママはふっと笑み含んだ声でそうつぶやいた。
「え?」
 少年は思わずママのお腹を覗き込んだらしい。少年の軽い息づかいがすぐ側にある。そして、しばらく黙っていたが、突然
「ちょっと触らせてもらってもいいですか?」
 と聞いた。
「私のお腹?」
 ママが面食らったのはその声のトーンでわかる。
「駄目、ですかね」
 さすがに自分の言ったことが唐突過ぎたと思うのか、少年は消え入りそうな声でそう言った。ママは一瞬考えたあと
「いいわよ。どうぞ」
 と答えた。白地に紺のチェック模様のマタニティドレスに包まれたお腹は、夕焼けの最後のひとかけらを浴びて、優しい稜線を描いているに違いない。
 少年は恐る恐るといった感じでママのお腹に手を当てた。私はふいに訪れた眠気と戦いながら、左足をぽんと子宮の内側に当て、一呼吸置いて、今度は右足を動かした。
「動いてる」
 溜息のように少年がつぶやいた。
「ね。元気でしょ。きっと男の子だろうと思って」
 ママは満足げにそう言う。その言葉を聞くと一瞬眠気がとんで、だから私は女の子なのよ、と言いたくなった。さーっと言う順調な血液の流れの音を聞きながら、私はもう一度右足を、子宮の壁に押し当てた。
「かわいいですか?まだ会った事がなくても」
 少年はママのお腹に手を当てたまま聞いた。無表情なのに、聞いた者が泣きたくなるような寂しい声だった。
「会った事なんかなくても、ここにきてくれただけで嬉しいの。多分世界一かわいいんだと思うわ」
 ママ。私ここにちゃんと居るわ。満たされて幸せな気持ちで、ここに居るわ。
「そうか……」
 少年の手のぬくもりが、すっとママのお腹から離れた。
「いけない、そろそろ帰らないと」
 ママはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうね、助けてくれて。とても嬉しかった」
 ママはそうお礼を言って、それからなにやらがさがさと、ビニールの袋を探る音が聞こえてきた。
 ママ、私眠いの。なんでそんな不愉快な音を立てるの?
私は鼻から羊水を吐き出して、ママに抗議する。でも、ママは私には構わず、何かを取り出している。薄いビニールのパッケージを破る音がして、ママは何かを少年に差し出した。
「これ、お礼。ごめんね、こんなのしかなくて」
 少年は、一瞬息をつめて、それきり何故か黙り込んでいる。すると、ママは優しくこう言った。
「あなたは“おまけ”なんかじゃない。だから、こっちのキャラメルの方をあげる。この“おまけ”は私がもらうわ。この“おまけ”を見て、私は、生まれてきてくれる子供への感謝を忘れないようにするから」
 そうか。ママは白い箱と赤い箱をつないでいるパッケージを破いていたのだ。そしてキャラメルの入った赤い箱を、少年に向かって差し出しているのだった。
「それにね、内緒だけど、私“おまけ”って大好きだし、大事にとってあるのよ、全部」
 ママが内緒話をするように、ひそひそと言った。少年が思わず、ふっと息を吐いた波動が伝わってくる。思わず苦笑を漏らしてしまったのだろう。
 逡巡しているらしい少年の手に、ママの手が触れて体温が上がる。ママは無理矢理その手にキャラメルの箱を握らせてしまったのだ。そしてゆりかごは、一度ゆっくり傾いて、それから家に向かって進み始めた。マンションへ入る瞬間、私は少年の声を聞いた。
「母さん」
と言った気がした。

 1ヵ月後。私は暗い道を、必死に通り抜けようとしていた。私を守っていた羊水はもうすっかりなくなり、体はこれ以上ないくらいに窮屈に縮められている。何か大きな力で無理矢理温かい場所を追われているその理不尽さと、到底耐えることが出来ないと思われるような、肉体的な苦痛が、私を容赦なく襲ってくる。
「さあもう少し!」
「がんばって!」
「息を止めないで!」
 様々な声が乱れ飛んでいる。ママの苦しげな声と荒い息遣いが、私を不安にさせる。恐い。何故私はこんな思いをして、ここにいるの。
「そうそう、上手、しっかりいきんで!」
 羊水を通した、ぼんやりとした声ではなく、直に耳に飛び込んでくる人々の声は、私の頭をガンガン痛めつけるようだった。私の体は捻じ曲がりながら、暗い道から押し出されていく。ママが大声をあげて、いやいやをしているのが分かる。
 ママ、痛いよ!
苦しくて痛くて、もうダメだと思った瞬間に、突然光の中へ放り出された。空気が喉を通り過ぎ、体が楽になる。
「ママ! 痛かったよ! 恐かったよ!」
 私はわんわんとそう泣いた。勿論言葉にはならなかった。それでも力いっぱい泣き続ける事が、私の『意志』なのだ。それをやめたら、ママに触れる前に、遠いどこかへ吸い込まれてしまいそうだった。
「おめでとうございます。女の子よ!」
 私を抱いた誰かが嬉しそうにそう叫ぶ。
「顔、顔、見せてください」
 ママが息を切らせて、かすれた声をしぼり出す。まだ羊水の匂いの消えない、私の柔らかな体が、ママの胸にそっと手渡される。初めて触れるのに懐かしい、そのぬくもり。
「ああ。ああ。会いたかった。ありがとう、生まれてきてくれて」
 ママはそうつぶやいて泣き出した。私を抱いたまま。私は幾度と無く聞いてきたママの声に包まれて、やっと泣く事から解放される。母乳の匂いのするママの胸元にしっかりと抱きとめられて、心が満たされると、暖かなゆりかごの中での記憶は、するすると神様の国へ仕舞い込まれてしまった。
胎内での記憶が途切れる瞬間、どこかで聞いた声が聞こえた。
「母さん。ごめんね」
 悲しげな、そして静かな声は、流れ星の軌跡のように、あっという間に消えてしまった。

 二十年後。私は成人式を迎えようとしていた。ママは、私が生まれた年に買ったと言う白い反物を、薄いピンクに染め上げて、桜の花模様の振袖に仕立ててくれた。
「これを着せるのが、ずっと楽しみだったのよ」
 ママは、自分のことのように、頬を染めて丁寧に折りたたまれた振袖をそっと撫でている。
「その割にはママは着付け、できないのね」
 私は小物を紙袋に詰めながら少しだけ意地悪に言ってみた。
「だっておばあちゃんが出来るんだもの、いいじゃないの」
 ママはぷっと頬を膨らませて、私と目が合うと、幸せそうに笑い声をあげた。
「ママって、本当男っぽいよね」
 からかうように私が言うと、ママが心外だとばかりに目をむいた。
「なんでよ? 男っぽい母親が、娘に振袖着せて喜ぶかしら?」
 あまり真剣に言うので、今度は私が吹きだしてしまう。
「着付けなんか出来なくても全然気にしないでおばあちゃんに頼っちゃう、その豪快さがママの魅力よ。あとミニカーとか飾ったりするところも男っぽい」
「ああ」
 ママは急に真面目な顔になった。ミニカーとは、居間の茶箪笥に飾り付けられている小物の中に、プラスチックの消防車が置かれているのを指して言ったのだ。ママはキャラメルのおまけで手に入れた小物を、今でもいくつか持っているのだが、男の子向けのおまけと思われるそのミニカーを、何故か一番目立つ場所に飾っているのだった。
「あれはね、おまじないなのよ。あなたたちに感謝を忘れないためのね」
 ママはそう言って、にっこりと笑った。
「感謝?」
 私は思わず聞き返したが、ママはもう、騒がしいママに戻っていて、あ、いけないカメラ出してない、などと叫びながら、二階へ駆け上がっていってしまった。起き抜けだったパパと階段でぶつかりそうになり、小競り合いを始めた様子を聞いているうちに、笑いが止まらなくなり、ママの言葉を問い返す機会を失った。
 バスで十五分ほどの距離にある、おばあちゃんの家で、私はその振袖に手を通した。するりと冷たい感触が肌を滑り、両肩に絹の重みがそっとかけられる。
「ああ、あんたは色が白いから、こういう色は良く似合うわねえ」
おばあちゃんの目元が、きゅっと下がって、その優しい声とは裏腹な力強さで帯が締められる。
「おばあちゃん、苦しいよ」
 私はわざと嘆いてみせる。本当は、こんな風にみんなの視線を浴びながら、主役にしてもらえるこの時間がいとおしいのだ。ママがいそいそと着付けを手伝いながら、笑いかける。たまにパパが部屋の襖をあけようとするので、私は大声でそれを制する。笑い声が家の隅から隅まで染み込んでいく。
 窓の外には、大きな川が流れている。川の流れは、太陽の光を浴びて、きらきらと輝きながら海へ向かう。振袖の心配をしなくても済む、美しい気候に密かに感謝しながら、最後の帯の一締めに息を詰めた時、その川岸を歩く人影を見た。二人連れ立って歩くその人影は、背中を少し曲げた、年かさの夫婦に見えた。二人はよろよろと川岸を歩いて、時間をかけて橋のたもとに近付いて行った。そして夫らしい老人が、手にした何かを、ふわっと川に投げ入れるのが見えた。
 花束だった。花束は一度川岸に近い大きな石に引っかかり、やがて水の力を得て、上下に揺れながら一気に下流へ流れていった。
(なんだろう?)
その老夫婦に気をとられぼんやりしていると、帯の上から背中をぽんと叩かれた。
「美貴、おばあちゃんからプレゼントがあるんだけど」
 振り返ると、おばあちゃんのいつもの笑顔があった。私はその笑顔につられるように、窓を離れて部屋を出た。
 四畳半の和室には、おばあちゃんのお裁縫道具や、趣味で集めた絵が置かれている。おばあちゃんはその和室へ、私を招き入れた。
「この帯留め、あなたにあげるわね」
 おばあちゃんはそう言って、黒いビロードで覆われた、小さな箱を取り出した。おばあちゃんの、皺の刻まれた手がその箱の蓋を押し上げると、緑色の石がはめ込まれた美しい帯留めが現れた。
「あなたのお母さんも、成人式の日にこの帯留めを使ったの。あの子は着付けに興味がないと言って、お嫁に行く時も持っていかなかったんだけれど」
 おばあちゃんは苦笑しながらそう言って、その帯留めを大切そうに箱から取り出した。そして私のお腹の辺りに身をかがめて、黒字に金模様の帯に、そっと緑色の輝きを留め付けた。
「ありがとう。綺麗ね。すごく嬉しい」
 おばあちゃんの肩に顔を寄せて、そう言うと、おばあちゃんのあの、大好きな笑顔が私を抱きしめてくれる。
「そうそう、あとこれも。これはね、あなたが生まれた日の新聞なのよ」
 そう言って、私から体を離すと、おばあちゃんは、薄い木の箱を取り出した。蓋を開けると、少し黄ばんだ新聞紙が出てきた。丁寧に折りたたまれていて、余計な折り目はなく、それが大切に仕舞われてきたのだと分かる。
「すごい! 私が生まれた日の新聞なの?」
 私は驚いて、そっとその新聞を取り出した。かすかな埃の匂いと、乾いた紙の感触が、時の流れを物語っている。
「ええ、私の初孫だったから、いい記念になるだろうと思ってね。二十歳になったらこれも一緒に渡そうと思って、大事にしまっておいたのよ」
 おばあちゃんの声を聞きながら、私は好奇心に操られるまま、新聞をゆっくりと繰っていった。
 イランとイラクの戦争の記事や、浅間山が噴火したと言う記事や、政治欄には「大曽根首相」と名前が出てくる記事や、私の知らない過去がそこに生きていた。
 その新聞の中の地方版の、小さな記事に何故か目をとめたのは、偶然だろうか。
「どうしたの? 何か面白い事でも書いてあった?」
ふいにママの声が降ってきたので、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
「昔の事よ。こんなこともあったのかって思ってただけ」
 私はおどけてそう言い、誰の目にも触れぬよう、静かに新聞を折りたたんだ。誰にもその記事について話してはいけないような気がしてならなかった。けれど、私自身は、きっと一生その記事のことを、忘れるわけにはいかないのだろうと感じていた。
 楽しげに後片付けをしながら談笑している、ママとおばあちゃんの横顔を見ているうちに、私の鼓動が激しくなっていった。私のものではない体液の、激しい流れが私を揺さぶっていた。ママたちの会話も、階下から聞こえてくるテレビの音も、外を行き過ぎる車のエンジンの音も、まるでプールの底で聞いたような、うすぼんやりしたものに感じられてくる。開いているはずの両目から光が消えうせ、ランダムに画像がなだれ込んでくる。暗く暖かなベッド。そっと触れる手のひらの熱。茶箪笥の中で、時間を失ったようにずっと飾られてきたミニカーの赤。
「どうしたの、帯がきついかしら」
 おばあちゃんが私の顔を覗き込んでいる。ママが慌てて振り返る。それで私は正気を取り戻す。
「ううん、大丈夫よ」
 私は笑う。笑いながら、新聞を木の箱の中へ丁寧に戻す。
 勿論私は、羊水の中から感じた風景など欠片も覚えてはいなかったけれど、私の体を通り過ぎていった冷たい何かが、私の胸に錐を突き立てたような痛みを残していた。そしてふと川岸を歩く老夫婦を思い出して、小さく息をついたのだった。

『今日未明A川の河川敷に男性の死体が横たわっているのを、新聞配達員が見つけ、警察に通報した。男性は所持品から山本紀夫さんの長男で昭雄さん(16歳)と判明。遺体発見現場から1キロほど離れたB橋に、昭雄さんのものと思われる靴が残されており、昭雄さんはB橋から転落したものと思われる。昭雄さんの部屋には遺書が残されており「お父さん、お母さん、僕のような子供が生まれてしまった事を、僕は謝っても謝りきれません。お母さんの財布から金を抜き取って、○○君に渡していました。何回も、何回も、何十万も、抜き取って、自分がいじめられないために、渡していたのです。お父さん、お母さんは、こんな僕を“おまけ”なんかじゃないと、言ってくれたのに、そして、なんとかこんな事はやめようと思うのに、結局負けてしまう僕には、生きる価値がありません。本当にごめんなさい。僕は疲れてしまいました」等と書かれていた。昭雄さんは義足をつけていると言う理由から、かなり陰湿ないじめを受けていたとの情報があり、警察では自殺との見方で、関係者から事情を聞いている。昭雄さんは前日、制服姿でカバンは持たずに家を出ており、所持品はポケットの中の財布とキャラメルの箱だけだったという。』



2003/03/08改稿版アップ。改稿に際して色々な方にご協力を頂きました。

大江氏、その他私にこの作品を書かせてくれた皆様に多謝。