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春まで歩く



第3回うおのめ文学賞短編小説部門エントリー作品

 薫さんからはがきが届いたのは、3月も半ばを過ぎたころだった。生暖かい風に生き物の本能がくすぐられて、何も無いのに気持ちが和らいでいくような、どこにでもある3月のある日。
 何の変哲も無い官製はがきには、書道2段というだけはある達筆の文字が細く連なっている。裏返すとそこには、時代がかったメルヘンチックな男女が刷り込まれていた。小学校の教師をしている薫さんがいつも子供たちに送る年賀状に出てくるような、ピンクのワンピース姿で、まん丸な目をした女の子と、青いタキシードを着た頭でっかちな男の子。勿論薫さんが自分でプリントしたものに違いない。
 そしてそこには、赤い文字が躍っている。

「結婚します」

「は?」
私は思わずまぬけなつぶやき声を出した。続きに目をやると、端正な文字がこちらをじっと見つめている。

「4月2日に入籍します!いよいよ主婦です」

その文字の下に、新居の住所とふたつの名前が並んでいる。

「桜井 啓太
     薫  」

薫さんの旧姓は「田倉」だった。
さくらい・かおる。

「変なの」
思わず口にしてから、子供みたいだと自分でおかしくなってしまった。

 だけど……薫さんが、主婦になる。

 あのさばさばとして、いつも周りの人たちから愛されていた薫さんが、たった一人の男のものになる。生涯一人の男性を選んで、自分の家庭を持つ決意をしたわけだ。

 「いよいよ主婦」か。薫さんらしい。「やっと主婦」じゃないところが。

 私はそのはがきを、パソコンのCRTに立てかけると、風が舞い込んで倒してしまわないように、開け放した南側の窓をそっと閉めた。


 薫さんとは、大学のサークルの中で出会った。もう12年前の話だ。郊外によくある、中流階級的なのんびりした大学の中で、私は友人と一緒に児童文学の研究をするというサークルに入った。ある程度名の知れた教育学の教授が居るお陰で、児童文学作家との交流があり、出版社で編集作業を手伝っている先輩もいたりした。そして、ボランティアで子供たちに絵本の読み聞かせをする活動なども行っているサークルだった。
 子供なんて特に好きではなかったから、人の良さそうな先輩達に引きずられて、何となく入ったようなものだった。それでも美しい絵本に出会ったり、作文を生業としている人たちの話を聞いたり、子供に甘えられたりするのは、私には新鮮な体験だった。
 薫さんは私のふたつ年上で、そのサークルの会計を務めていた。取り立てて美人というわけではなかったけれど、優しく笑っている目にはいつも強い光があった。柔らかそうな紅茶色の髪を肩より長く伸ばしているのは見たことがない。いつもGパンとTシャツ、といったラフなスタイルだったが、ごくたまに膝丈のタイトスカートを履いてきたりもした。そんな日には必ず部員の誰かが「デート?なわけないか」と冷やかしては、薫さんの鉄拳をおでこに受けていた。楽しい事があれば真っ先に大きな声で笑い、揉め事があれば誰よりも真剣に解決の方法を探り当てた。そして誰にでも分け隔てなく自分の優れた心を配れる人だった。薫さんがにっこり笑うだけで、子供たちもサークルの人間達も、理由のない安堵感を手に入れることができた。だから当然、薫さんの周りには、自然と人が集まってくるのだった
 勿論サークルの人間は多かれ少なかれそんな人柄ではあった。私が人より少し多く抱えている闇の部分を、悪意でつつくような事は誰もしなかったし、あるいは自分自身の中に底知れない闇を沈めて生きている人だっていた。そんな中でも、薫さんは私にとってとても特別な人だった。

 18歳の私は、その日デパートの地下でのバイトを終え(確か寿司の販売をしていたのだ)、自転車で家路についた。比較的仕事が暇で、お客の数が少なかったため、店長から早めにあがっていいと言われたから、時間は恐らく6時頃だったのだろうと思う。
 6月に入ったばかりで、まだ梅雨の季節を思わせる粘っこい風は微塵も吹いていなかった。私は通いなれた細い路地を高校2年生から使っている自転車で駆け抜けていった。ペダルを踏み込むたびに、キーキーと不快な音をたてる。その音は微かに、でも確実に私の神経を逆撫でしていた。それはいつも通りの、憂鬱な予感によりどころを無くした心の悲鳴だった。
 家の門が見えたところで、もう父の怒鳴る声が聞こえてきた。恐らくまたしたたか酔っている。私は心臓の中から溢れ出そうな血流を抑えつけて門を開ける。
「やめて!」
母の声と、ガシャン!という何かが砕ける音が同時に聞こえる。慌てて玄関のドアを開けるときに、ふと横を見ると、隣家の若い奥さんが、窓から顔を出してこちらをじっと見ているのに気がついた。どんな表情をしているかまでは、暗くてよくわからない。でもそのシルエットだけで、何を思ってこちらを見ているのかは見当がついた。私は顔がカッと火照るのを感じながら、素早く家の中に滑り込んだ。

 「何が気に入らないんだ?お前が悪いんだろうが」
ろれつの回らない父のいやらしい声が聞こえてくる。私はそのころにはもう、父の顔を正面から見るのさえまっぴらだった。それでも中に入らないわけにはいかない。
 居間に入ると、そこには黄色い液体と、茶色の瓶のかけらが、アルコールの匂いとともに散らばっていた。父が一升瓶をテーブルにぶつけて割ったのだとすぐわかる。母は黙ってガラスの欠片に手を伸ばしている。思わずその横に立っている父を睨みつける。父は、白いTシャツに黒のジャージという姿だったが、ジャージの左足は膝の辺りまでまくれ上がっていた。目は泥酔を嫌というほど焼き付けて、どんよりとよどんでいる。赤黒い肌とからからに干からびた黒い唇が、私の中でグロテスクなエイリアンを構築していく。悪寒が走るほど醜い、その姿。
「何やってんの」
私は声を荒げた。
「いい加減にしなよ。一体いつまでこんな事してんの?今日会社行ったの?」
私は父を睨みつけたまま叫んだ。声はおかしいくらい震えている。勿論恐いんじゃない。怒りで声だけではなく、手も足もぶるぶると震えていた。
「お帰り」
父はふざけた猫撫で声を出す。よれたTシャツは黄ばんでいて、父が汚く見えた。いや、父が着ているから黄ばんでしまうのだろう。私は身震いした。
 この様子では今日も会社へは行っていない。もう半年近く、父はほとんど会社へ行かず、アルコールを喉の奥に流し込んでは、有り金を競馬やパチンコにつぎ込んでいた。そして掛け金がマイナスになれば、こうして必ず八つ当たりをするように暴力的になる。そして思い出したように何日かに1回会社へ行き、建設機械の運転をしては賭け事や飲み代にするお金を調達していた。そろそろ会社から解雇を言い渡されそうな状態の中で、母が目いっぱいパートに出て、何とか生活費を工面していた。
 賭け事で大当たりすればしたで、今度はその金を抱えて、2〜3日帰ってこない。その間父がどこで何をしているか知るよしも無かったが、父が居ない日々は静かで心休まる安息の日だった。このまま帰ってこなくてもいい、とさえ思った。

 「お母さん、なんでこんなのといつまでも一緒にいるの?さっさと別れちゃえばいいんだよ!」
私は母に向かって吐き出すように言った。
「やめなさい」
母は苦しげな表情で、それでも語気鋭く言った。父は酔った身体をゆらりと揺らしながら、へらへら笑った。私は思わず玄関へと走り出た。そしてそこに立てかけてある、弟の金属バットを握った。そのまま居間へ取って返すと父を睨みつけた。
「なんだ、殺す気か」
父は黒い笑いを唇にひっかけたまま、少し身を硬くした。
「何してるの、やめなさい!」
母が慌てて私の手を抑えつけた。母の手を押しのけて、父の前に出ると父の表情が一変する。激しい怒りの表情だった。
「生意気な事するな!」
父は力任せに私の頬を殴ろうと近づいてきた。それを見た私は、居間の窓を開けた。そしてそのまま窓から裸足で狭い庭へ飛び降りた。靴下を履いた足の裏に、湿った土がひやりと触れる。相変わらず隣の奥さんがじっとこちらを見ている。私は迷うことなく、そのまま走り出した。

 気がつくと私は、裸足で右手に金属バットという奇妙な格好のまま、夜の町を走っていた。幸い食事時を少し過ぎた住宅街には、人影はほとんど無かった。
 息が切れて立ち止まる。外灯の下を避けて、民家の冷たい壁に背中をあずけた。まだ春のにおいがする風が、汗ばんだ額を撫でていく。寒くは無かったけれど、土のついた白い靴下の足元がなんだか頼りなかった。

 大学に入って一人暮らしをする友達もいた。出来るなら彼女達のように、家を出てしまいたかった。それでも母ややがて部活を終えて帰ってくる弟を放り出して1人暮らしをする勇気は、私にはなかった。
 そして、金属バットなんか持ち出していながら、心の中には一瞬でも本物の殺意がありながら、私は父の手のひらに恐れをなした。何度殴られたか分からない。その恐怖はどんな状況でも、私を怯えさせる。母はどうしているだろう。殴られていないだろうか?思わず後先も考えずに飛び出した自分の姿を確認する。圧倒的に奇抜で惨めな醜態だった。長袖のTシャツのそでをまくりあげてみる。金属バットを暗い空にかざしてみる。通りすがりの人には、素振りでもしているように見えないだろうか。見えないだろうな、きっと。胸のあたりが、ぎゅっと布でも詰め込まれたように苦しくなる。

 涙は流れなかった。

 もう1年半もこんな風に家の中ではいざこざが絶えない。そして私はもう1年半も泣いていない。本物の怒りや恐怖の前では涙が乾いた。喉もからからになった。ただ全身がガクガクと震えて止まらない。
 私は力なくうなだれる。結局私は父が酔いに負けて眠ってしまうまで、こうして1人歩き続け、ほとぼりが冷めたころにそっと家に戻るのだろう。いつもと同じだ。
 
 その日の記憶はそこからがない。今となってはその夜どんな風に過ごしたのか、家に帰ったのか、それともどこかに泊めて貰ったのかも思い出せない。でも恐らく泊めてもらったという可能性は低い。その頃の私には自分の家族のことを話せる友人はいなかったし、事情も聞かずに裸足で金属バットを持った女の子を一晩休ませてくれる心の広い知り合いもいなかったのだから。

 翌日、何食わぬ顔で大学へ向かったところからは覚えている。別に家で何が起ころうと、必修科目の授業が休講になるわけがないし、誰の前でもいつもと変わらぬ自分でいる自信があった。
 4時限フルの講義で、中国語だの、コンピュータ概論だの、社会学だのをほとんど無意識のまま受けて、右手が勝手にノートをとっていた。コンピュータ概論の終わる20分前に居眠りのひとつもしたかもしれないが、そんなのはいつもの事だ。
講義が終わると、いつものサークルの部室へ向かった。紺色のキャンバス地で出来たトートバックを肩にかけて、脇でしっかり固定する。そしておもむろに走り出す。順番に回ってくる鍵当番を命じられていた私が部室の鍵を預かっていた。だから今日は誰よりも早くたどり着いて、部室をあけておく義務があったのだ。
 大学の敷地の中で1番北に、3階建ての建物がある。ここが各サークルの部室として割り当てられている建物だった。
外階段を使って3階へあがり、扉をあけてすぐ左手が部室だ。階段を駆け上がっていると後ろから声がした。
「なーおちゃん」
それは私の略称だった。サークルの人達は皆私を「なおちゃん」と呼んでいた。振り返ってみると薫さんが私と同じペースで階段を駆け上がってくるところだった。
いきなり立ち止まった私に、薫さんの急ブレーキが間に合わず、そのまま体当たりされそうになる。
思わず身体をくるりと横に向けて薫さんをかわした。
「わっ」
薫さんはつまづきそうになりながらも、見事に体勢を立て直し、そのまま1段飛ばしで階段を駆け上がっていった。
踊り場にたどりついて若干得意げに私を見下ろしている薫さんを、私は呆れ顔で見つめた。
「若いですねえ」
私がつぶやくと
「あんたはババくさいわね」
とあごを上げて得意げな表情のまま腰に手をやった。
反論する元気を失ってだらだら階段を上っていると、またしても背後から不吉な足音がやってくる。
「なおちゃーん、鍵持ってる子は1番に部室に辿りついてないと、罰として夕飯おごらせるよお」
振向く間もなく私の横をかけ上がって行ったのは、ひとつ年上の山下さんという男の先輩だった。ひょろりと背が高く、童顔で人懐っこい性格だったので、女の子達に人気があった。
私はとっさに手に持っていた鍵を、踊り場にいる薫さんに向かって投げ上げた。弧を描いた鍵が、薫さんの左手に「かちゃん」とおさまるのと、山下さんが薫さんの横を駆け抜けるのはほぼ同時だった。
薫さんは、彼女を出しぬいて部室の扉にたどりついた山下さんを振り返り、私から受け取った鍵を人さし指と親指でつまんで揺らしながら
「あんた私に夕飯おごらせる気?」
と、ニヤリと笑った。
「ああ……いや……全然腹減ってないっすから」
山下さんはわざとおどおどと答えてみせる。私は思わず声を上げて笑ってしまった。
薫さんがそのまま鍵穴に鍵をさし込み、山下さんと私が続いて部室に入ってしまうと、待っていたように部員達がぞろぞろと集まり始めた。そしてそれぞれ、児童館へ読み聞かせに出かけたり、研究資料の文献を探したり、絵本の選択をしたり、子供からのお礼の手紙を分類したりしはじめた。
私も顧問である水沼教授に借りた、シュタイナー教育の本を広げて、資料となるべき部分を抜粋し始め、その作業に没頭した。

 その日、珍しく父は仕事に出たらしい。9時過ぎに家に戻ると、疲れたのか、父は居間のテーブルの側に横たわりいびきをかいていた。。
ほっとして父を起こさない様に、2階へあがり、グレーのジャージに着替える。
母もスーパーのレジ打ちの仕事から帰ったばかりで、あたふたと夕食を温めていた。
 10時頃電話の呼び出し音が鳴った。母が受話器をとった。
「はい、前島でございます」
母の声を聞き流しながら、私は風呂に入ろうと腰を上げた。すると母が振り返った。
「田倉さん、ですって」
薫さんからの電話だった。どうしたんだろう?ほんの少しの緊張を母に悟られないように、うつむいたまま受話器を受け取る。
「はい、お電話代わりました」
「あ、なおちゃん?悪いね、遅くに」
薫さんの明るい声が響いた。
「いえいえ。どうしたんですか?」
「ああ、ていうか、あんたがどうかしたんじゃないかと思って電話したのよ」
薫さんは半分笑いながら言ったが、その声には真剣さが含まれていた。
「なんか、あった?」
薫さんの問いかけに私は思わず息を飲んだ。
「何にも無きゃいいんだけどさ。なんかすっきりしない顔してたし、どうしたのかなあと思っててね。私ってデリケートだから、気になると眠れなくなっちゃうのよ」
おどけてしゃべっている薫さんの、今の表情さえ、私には目に浮かぶような気がした。
きっと口元は笑っていても、目は真剣なのだろう。彼女は、どんな気持ちで私に電話をかけているのだろう?
「うーん、ちょっと寝不足だっただけだと思いますね」
私は努めて明るい声を出した。すぐ側にいる母の手前、暗い顔などできる訳が無かった。
「寝不足?」
薫さんはつぶやいた。
「あんた3時限目は必ず居眠りしてるくせに寝不足になんかなるわけ?」
「なんでそんな事知ってるんですか」
私は溜息混じりに言って、受話器を顎にはさむと、左手の汗を膝でぬぐう。
「いや、いいけど」
電話の向こうで薫さんが体勢を変えたのが分かった。そして一瞬の沈黙の後
「眠れない理由でもあるのかな、あんたには」
と、つぶやいた。私への問いかけとも、独り言ともとれる微妙な声の響きだった。私はただ押し黙った。
「そっか。うん、いいんだ、何でもないならね。良かった」
いつもの明るい薫さんの声がして、私は、雲に隠れていた陽光がさっと差し込んできたような感覚を味わった。これ以上の沈黙が、私にやり過ごせるわけもなかったからだ。
「んじゃ、またね。悪かったね、遅くに変な電話して」
「いや、心配して頂いちゃってすみませんでした。おやすみなさい」
薫さんの電話が、ぷつんと切れるまで待ってから、私は受話器を置いた。その時、自分が明らかに絶望している事に気がついた。そしてそれが、勿論薫さんに対してではなく、自分自身に対する絶望である事にも。
 本当は誰かに話してしまいたかった。自分はまるで生まれたての猫のように、呼吸をする事だけで精一杯の毎日を過ごしているのだと訴えたかった。そしてそんな自分を、あたたかく抱いて叱ってくれる存在が欲しかった。その一方で、こんな子供じみた惨めな自分の姿を、誰かにさらけ出すなど恥ずかしくてとてもできる事ではないという、諦念も抱いていた。今思えば、紛れもなく子供だったのだ。私はまだ18歳で、全てを1人で抱えきれるほどの成熟を手に入れてはいなかった。しかし当時の私には、自分の姿がひどく不恰好なものに思えてならなかったし、そんな自分を出来れば誰の目にも触れないところに、そっと置いてきてしまいたかった。薫さんの掛け値なしの優しい気持ちに触れることで、その思いは更に強まった。
 そんな若い小さなプライドの裏で、私は薫さんの視線がどこまで私を見抜いているのか、考えずにはいられなかった。薫さんは、どうして私に何かあった、と思ったのだろう?私は知らぬうちに、人に自分の心をさらけ出すような行動をとっているのだろうか?それは一体どんな行動や発言だったと言うのか?
今まで誰にも気付かれた事なんかない。今日だって薫さんと会って、いつもと変わらぬ冗談を交し合った。山下さんのおどけた態度に、薫さんと二人指をさして大笑いした。仲間たちが集まってきて、いつも通りの明るい挨拶から始めて、いつも通りにみんなと話をした。私は特別黙り込むでも、饒舌になるでもなく、小学生がもらう「よくできました」のハンコを押すような、いつも通りの1日を過ごしたはずだった。それなのに、何故薫さんは気付いてしまったんだろう?私は人知れず重い溜息をついた。


 それから3日ほどたって、私は再びサークルの部室へ駆け足で向かっていた。耳元を髪が一定のリズムで叩き、風がびゅんびゅんと通り過ぎていく。
部室の鍵を預かっていたわけではない。私の心が、救いを求める様にその場所へと私を走らせていた。外階段を駆け上がって、部室のドアをノックも無く開く。部室には既に5人ほど集まっていて、意味を持たない冗談を、煙草の煙のように吐き出しているようだった。
私はざっと室内を見まわしてから、
「薫さん、まだ来てないですか?」
と声を大きくしてたずねた。私が息を切らせているのを不審そうに眺めながら、同じ一年生の真希が
「さっき来て、学生会館に用事があるって言って出て行ったよ」
と教えてくれた。
「ありがと」
私はくるりと向きをかえて部室を後にした。乱暴に走り出たので、鉄のドアがガシャン!とひどい音を立てた。
 部室棟を出てすぐ左手の坂道を上って行くと、学生会館があり、そこで学生達は書類の手続きなどをする。坂をのぼりつめた所に、レンガ作りの3階建ての建物が現れたら、それが学生会館だ。
私は1階の自動ドアを蹴破りそうになりながら、学生会館の中へ飛びこんだ。受付のあたりに目を凝らすと学生が数人、窓口の職員に何かを説明したり、学費免除の申込み書類を受け取ったりしている。その1番後ろに、薫さんの後姿があった。今日は珍しく黒いタイトスカートを履いている。すらりとした白いふくらはぎをぴんと張っているけれど、ローヒールのパンプスは居心地が悪そうだった。上はサークルで作った揃いの青いスタジアムジャンパーをはおっている。
「薫さん!」
私は薫さんの背中に走りよりながら声をかけた。薫さんはすぐに振向いた。
「あれ、どうしたの」
薫さんはいつもの笑顔で私を見つめた。
「薫さん、私、何かあったんですよ、本当は」
私は肩で息をしながら、切れ切れに言った。多分異様な雰囲気だったのだろう、側にいた女子学生が横目でこちらをうかがっている。でも、そんなことはどうでも良かった。私には薫さんしか見えていなかった。薫さんは一瞬眉をあげて、鋭い直線的な目を私に向けた。
「わかってるって。ちょっと待っててくれる?」

 薫さんの書類が、窓口で受理されてしまうと、私達は連れ立って学生会館を出た。少し歩いたところに大学の所有するグランドがある。だたっぴろいだけのグランドで、今はラグビー部が土煙を上げながら、アーモンド形のボールを追いかけている。そのスタンド席を、かなり上までのぼり、私達は腰掛けた。
 白い10階建ての学舎が、夕方の赤い太陽を飲みこんだように、暖かい色に染まっていた。薫さんのふんわりとしたショートヘアにも、夕陽がとまっている。
薫さんは、私に自動販売機で買ってきたココアの紙コップを手渡しながら
「何かあったのは分かるんだけどさ」
と、いつものおどけた口調で私を覗きこんだ。
「何があったかまでは分からないんだよね、薫さんでも」
私はうなずき、受け取ったココアにひとくち口をつけると、息を整えた。
それから私は、夕陽が落ちて、薄青い空に星が点々と光り始めるまで、自分にあったことをしゃべりつづけた。3日前のいざこざも含めて、今起きている事を、ひとつひとつディテ-ルに渡って言葉にしていった。途中で薫さんが何かをアドバイスめいた事を話し出すのではないかと思って、何度も薫さんの顔をうかがったが、薫さんはただ
「それから?」
と聞くだけだった。
「何故父が急にギャンブルなんかやるようになったのか、分からないんです。昔からお酒を飲んでは人に迷惑をかける人だったけど、あんな風に賭け事にはまるような事はなかった。家族は父に迷惑をかけられこそすれ、父に何か酷い事なんてしたことはないのに。起きる問題は全部父が起こして、片付けるのは母だったし、私達はそれに従うしかなかった。
大学に入って、家を出ることも考えましたけど、暴力をふるう父を見たらとても母や弟を置いて一人だけ出て行くなんてできなかった。だって、私高校の頃から思ってたんです。"私が守るしかないんだ"って。いっそもう離婚してしまった方が、って何回も母に言っているけれど、母はただ耐えているだけだし。それに……」
私はそこで一瞬言葉につまった。薫さんはただ黙って空になった紙コップを手の中でもてあそびながら私の話しの続きを待っていた。
「私は、父が、嫌いです。殺したいくらいに」
私の声は小さく震えていた。口にしてしまうと、なんともありふれた言葉に思えた。でも、その言葉の持つ意味は、底が見えない湖みたいなものだった。恐怖に怯えるほど深いのに、覗き込まずにはいられない、そのめまいのような感覚が、ゆっくりと私を支配し始めるのを、慌ててかき消す。
そこで私はもう話しつづける言葉が無くなった。黙って自分の青いスニーカーのつま先を見つめるしかなかった。薫さんは私をどう思っただろう。馬鹿にするだろうか。恐ろしい子だと思っただろうか。可哀想だと同情されるのだろうか。
一体どんな顔を、今薫さんはしているんだろう?
横にいる薫さんの顔をそっと盗み見ようとした瞬間、
「大変だったね。よく我慢したね」
と、薫さんの穏やかな声が降ってきた。思わず横を向いて薫さんの顔を見つめた。
「よく、話してくれたね」
薫さんは優しく微笑んだ。それは干からびた砂漠にぽつんと落ちてきた、スコールの最初の一滴のような微笑だった。その一滴が心の中に跡形も無く吸い込まれてしまうと、今度は一気に雨がやってくる。私はきっかけさえあれば号泣してしまいそうな自分に気がついた。慌てて何度も目をしばたいて、たまっている涙を蒸発させようとやっきになった。
「なおちゃん。お父さんが可哀想だって、本気で思えたら、お父さんはギャンブルもお酒もやめるよ」
薫さんが激しそうな私の感情をなだめるような、静かな声でそう言った。それは穏やかで落ち着いた音色だったが、同時に断固とした信念のような響きを含んでいた。私は薫さんの言う意味がわからず、脳の中でその言葉を何度も反芻してみた。
「辛いかも知れないけど、お父さんを怨む気持ちを捨てて、お父さんだってきっと辛いんだ、お父さんを幸せにしてあげたいって思えたら、お父さんは変わってくれると思うよ」
薫さんは静かに顎の下で指を組んで私をじっと見つめている。真っ黒で大きな瞳が、私をひどく落ち着かない気持ちにさせた。一体この気持ちはなんだろう?だって私は、そんな風に父の心なんて思うことはなかった。父に心があるなんて、認めたくもないのだから……。薫さんの言葉が私の全身を何度もなでていく。
「お父さんは、なおちゃんの気持ちや、ご家族の気持ちを痛いくらい感じてるんじゃないかな。そして、その気持ちに耐えられなくて、どうしても暴力的になってしまうんじゃないかな。もし家族が本当に危険な状態ならまた違うけれど、あなたたちを徹底的に暴力の的にするんじゃなく、物を壊したり、平手打ちくらいで済ませているのは、多分お父さんが本当に病的な暴力者じゃないからだと思うよ。当事者からすれば、綺麗事に聞こえるかも知れない。だけど、やっぱりお父さんはあなたのお父さんだもの。人間だもの」
確かに父は、私たちを徹底的に殴り続けるわけではなかった。どちらかと言うと言葉の暴力で、最後には力任せに側にあるものを手当たり次第に壊していく。その延長に私たちがいて、殴られたりする、そんな事が多かった。それでも父の暴走を目の当たりにすると、私たちにはなすすべも無かった。私は思わずうつむいて頬にかかる自分の髪を何度も指で梳いた。
ラグビー部の部員達がグランドの真ん中に集まって円陣を組んでいる。野獣のような彼らの吼え声も、今の私には水の中で聞く音楽のように遠く現実感が無いものに思えた。今聞こえてくるのは薫さんの声だけだった。
「何かあったら、すぐ私のところへおいで。お母さんと弟さんとなおちゃん、3人くらい泊まっても大丈夫よ。妹と一緒に住んでいるから二間部屋があるし。お金は私にはなんともしてあげられないけど、バイトの紹介くらいはできるかもしれない。できることはなんでも協力するけど、お父さんを好きになる事、お父さんを幸せにしてあげる事は、これはやっぱりあなたじゃなくちゃできないことよ」
薫さんは私の目を見ながら、ゆっくりと言葉を紡いでいた。あの笑顔は消えて、湖を覗き込む私を叱咤するような厳しい表情をしていた。しかし、一気に話しおえると、ふっと肩の力を抜いた様に、微笑みを戻した。
「大丈夫だよ。必ず乗り越えられる。乗り越えようよ」
私はただうなずいていた。声を出せば泣きだしそうだったからだ。私には薫さんの、投げかけた”挑戦”という課題が、どれだけ考えて口にされたものかを、よく理解できた。この人はただ口先でこんな事を言っているんじゃない。本気で私の話しを聞いていたのだ。そして本気で私を励ましている。薫さんの言葉が糸電話の糸のように振動して、私の心にびんびんと当たり続けている。
「どうして」
私はやっと声を出した。
「どうして、そんなに心配してくれるんですか」
薫さんは肩を揺らして笑った。
「私もあなたと同じだったからよ。ほっとけないの」
そしてさっと立ちあがり、タイトスカートのお尻をパンパンと両手で払った。
「行こう」
見上げると東の空に、オレンジ色の大きな月が、そのまん丸な巨体を、どっこらしょともちあげてくるところだった。

 それ以来、薫さんは、絶妙のタイミングで私に電話をかけてくるようになった。
私が家庭でのごたごたを抱えて元気が無い時には、必ず電話をくれるか、サークルのみんながいなくなったところを見計らって声をかけてきた。私の顔を見ていると、元気があるのかないのかわかるからだ、と言うのだが、相変わらず何故薫さんにはわかってしまうのか、私には理解できなかった。でももうそんな事はどうでもいい事のような気がした。
 家に帰るのが恐い、家族が心配だけれど帰るのも嫌だと、子供のような事をつぶやいて椅子から立ち上がれない日もあった。そんな時、薫さんは何時間でも私を待っていた。そして大学の門が閉まる時間になると、一緒に帰ろうよとつぶやいて、私を家まで送ってくれた。薫さんの部屋は大学から自転車で15分ほどのところにあり、私の家は大学の前にあるバス停から駅まで30分、更にそこから電車で一駅、駅からは自転車で15分と言う道のりだった。彼女はその距離を、私について家まで送ってくれたのだ。家の前まで来て、何の物音も怒鳴り声も聞こえない事を確認すると、私は膝の力が抜けてそのままへたりこみそうだった。
「しっかりしなさい。ちゃんと家に入るまで見てるから」
薫さんは小さな、でも凛とした声で私に言った。そして本当に私が家に入るまで、そこに立って見つめていた。ドアを閉める瞬間に見た、薫さんのシルエットが、私の心にぼんやりとろうそくのようなあかりを灯していた。

 薫さんは、自分の家族について多くを語らなかった。ただ中学生の頃ご両親が離婚して、その理由はお父さんの暴力だった事、薫さんを筆頭に3人いた子供は皆お母さんに引取られた事、今は短大に通っているすぐ下の妹さんとこちらに引っ越してきた事、かつてはお父さんを死ぬほど怨んだ事を、折に触れてさらりと語ってくれただけだった。
「私だって何回寝ている父親の枕元に、ゴルフのパター握り締めて立ったかわかんないわよ。いつも振り下ろすタイミングを逸してたけどね」
薫さんは、柔らかい微笑みを口元に浮かべて明るくそう言った。
「今お父さんはどうされているんですか?」
そう聞くと、少しだけ躊躇して、でもすぐに
「死んだわ。私が高校を卒業した年にね」
と答えた。私が何を言えばいいのか分からずにいると、薫さんは手を横に振って私を遮り、さりげなくサークルの仲間の中へ入っていった。


 夏が過ぎて、秋が訪れようとしても、父の様子は相変わらずだった。会社の上司が、母の知り合いであったため、事情を察したその人が奔走してくれていた。お陰で、何とか解雇だけは免れていたが社員としては最悪の勤務状態のままで、こんな事がいつまでも続けられるとはとても思えなかった。
時には酒の匂いをさせて職場へ行き、会社の同僚に連れて帰ってこられたこともあった。
 私は必死で思った。
「父を好きになりたい。父を幸せにしたい」
それは、最初のうちは顔をゆがめてしまうくらい、自分の心に反した内容に思えた。全然好きじゃなくても構わない。早く離れて忘れ去ってしまいたい。自分の結婚式の時には死んでも出席して欲しくない。素直な思いはそちらにあるような気がした。
空回りする自分の思いを噛み潰して、父と対峙することが、私に出来る精一杯だった。ある時は父の投げつけた湯飲み茶碗が額に当たりそうになり、思わず両腕で顔を覆った時に、ざっくりと左腕が切れた。畳の上に、ぽたりぽたりと滴っていく赤いしずくが、私の心を試しているように思えてくる。私は呆然としている父の顔を正面から見つめた。
「大丈夫だよ、これくらい」
私は静かにそうつぶやいて、ゆっくりと部屋を出た。脈打っている私の命が絶えたら、少しは父も変わるのだろうかとぼんやり思う。そしてそんな気持ちにはっとして、現実へと自分を押し戻す。あと少し線を越えてしまったら、私は静かに幕を引くために何でもしてしまいそうで、腕の痛みに気持ちを集中させた。

その頃の私は、うんざりするほど暗い毎日に疲れて、薫さんの部屋へ逃げるように泊まりに出かける事もたびたびだった。
「薫さん、今日とか泊まりに行ってもいいですかね?」
突然そんな風に持ちかけても、薫さんは一度も断らなかった。
「いいわよ。私今日バイトだから、先部屋入っててくれる?」
と言って、部屋の鍵を渡してくれる事もあった。そして、薫さんを一回り小さくしたような、可愛らしい妹さんを含め3人で、簡単な料理を作り、風呂を順番に使い、布団を並べて朝方までおしゃべりが終わらない、そんな一夜を過ごすのだった。

「あんた、最近お父さんに優しくなったわね」
ある日母が私にそう言った。その日も父は、飲んで散々悪態をつき、がたがたと2階へあがっていった。幸い何も壊されはしなかったので、ほっと力を抜いて、テレビを見るともなく見ていた時だった。
「優しいかな。別にそんなことないけど」
私は意外な母の言葉に戸惑いながらそう答えた。
「少なくとも、"早く離婚しろ"、は言わなくなったわよね」
母がくすりと笑う。母の、結婚指輪が食いこんだゴツゴツの左手を、ぼんやりと見つめる。
「ああいうお父さんを選んだのは、お母さんだから、あんた達には辛い思いをさせて申し訳無いと思ってる」
何を言おうとしているのだろう?母がこんな事を言い出したのは始めてだ。いつも黙って泣いている母が、突然こんなことを言い出したので、内心ドキリとしていた。
「それでもね。逃げたくないのよ。こういう人生から。お父さんを変えたいの」
母の顔を見る。その表情には、誰にも変えがたい決意が見て取れた。母はいつもこんな表情をしていたのだろうか?
「いつか、ご近所の人達にね"あの家はずっと喧嘩が絶えなかったけれど、最近喧嘩の数が減ってるなあ"、"なんだか最近喧嘩してないなあ"、"あそこは昔は酷かったけど、今はなんだか幸せそうだなあ"って、言われるようになりたいの。時間がかかっても、そうしたいと思ってるの」
ぽつりぽつりと語る母の声には、私が手にしたことの無い、圧倒的な強さがみなぎっていた。うつむき気味の額に、深く刻まれた皺を、初めて美しいと感じた。ああ、母はこんな事を考えていたのか。ただただ、運命に泣くだけの弱い女だと思っていた……。
「お母さんは、お父さんの事、愛しているんだね」
私はそっとつぶやいた。母は一瞬息を吸いこんで、そして照れくさそうな笑顔を咲かせた。
「まあそうね。そうでなきゃ、逃げ出しているのかもね」


 10月に入って、私達1年生も、サークルのスタジアムジャンパーを注文してもらう事になった。秋の学際で、そろって着る為だ。
しかし、私はいつまでも自分の分を注文できずにいた。バイト代は自分自身の学費と、その他の小遣いと、家計の足しにするために使っていて、余分は無かった。勿論両親に相談などできる経済状態でもない。そんな私の心を見透かす様に、薫さんが言った。
「まあどうせ私達貧乏学生だから、部費である程度立て替えします。その代り、余裕のあるブルジョアな学生は即金でお願いね」
「そんな奴いたらたかってるよなあ」
サークルの部長をしている3年生の手島さんが笑いながらそう茶化した。
「この前高部君なんか、お米が一粒も無くなったって言って、部室に転がってたじゃん」
真希が、同じ1年生の高部君にそう言うと、高部君は
「あの時はみんなにおにぎり分けてもらって助かったなあ」
としみじみと語りはじめた。手島さんは高部君の頭をくしゃくしゃと撫でながら
「俺もマヨネーズ寄付してやったよなあ。出世払いせいよ」
とウインクしてみせた。いつも通りの笑い声に包まれた部室で、私はほっと力を抜いた。
サークルの部会が終わって、自転車置き場へ向かう途中、薫さんが後ろから私を羽交い締めにしてきた。
「どうかな、調子は」
「大丈夫ですけど……薫さん重い……」
「重いですってえ。これでも2キロやせたのにさあ」
大笑いしながら、薫さんは私の頭をぽんぽんと叩いた。そしてさっと身を翻して大学の門に向かって走り始めた。冷たい風が、金色の銀杏の葉をざざっと空中に舞い上げていく。薫さんの後姿は、そのまま本にはさんでしおりとして取っておきたい様な、ありふれた美しさに満ちていた


 家には9時半頃ついた。玄関先まで着いた時にも、怒鳴り声は聞こえてこなかったので、ほっとしながらドアを開けた。
「ただいま」
居間に入ると、意外にも両親と弟がいた。弟が、ボロボロ泣いているのを呆然と見つめた。
「どうしたの」
私は緊張に身を強張らせながら聞いた。
「雅司がこれをね…」
母がそこまで言ってぐっと喉を詰まらせる。母の手には銀行の名前が入った、白い封筒が握られていた。
「雅司がバイトで稼いだお金だって」
父があぐらをかいて、うつむいたままそう言った。赤い顔と、酒の匂いからして、飲んでいないわけではないようだが、いつもとは全く様子が違っている。
「バイト?だってあれは週に1回くらいだったでしょ…」
そこまで言いかけてはっとした。部活で遅くなると言って、弟はいつも夜遅く帰ってきた。野球部に入っていたけれど、さしてうまくもなく、レギュラーでもないと言うのに、夏の終わり頃からから急に帰りが遅くなった。コンビニのバイトと両立だから大変なんだと言っていたが、もしかして……?
「野球部やめて、バイトしてたんだって。お父さんにあげるんだって……」
母がやっとそう言った。
「少ししかないけど、これだけあれば、少しは競馬もしなくて済むかと思って…」
弟は泣きじゃくりながら、吐き出す様にそう言った。母の手から封筒を抜き取り、中身を見る。そこには一万円札が18枚入っていた。金額を見れば、弟がほとんど手をつけずに持ってきたのだと分かった。
父は私の手に握られた一万円札を見ると、突然滂沱の様に涙を流し始めた。くっと喉を鳴らして、嗚咽をこらえていた。
「お父さん。雅司だってこんなにしてくれてるのよ。なおだって自分の学費だけじゃなく、家計の足しにしてくれって毎月バイト代から家に入れてくれてるのよ。いい子供を持ったじゃない。私達幸せだよね……」
母の目からも涙があふれてきた。後から後から流れてくる涙を、今日はぬぐおうとしなかった。
家族の涙の中で、私は1人泣けなかった。泣いてしまいたい気持ちもあったけれど、涙は流れなかった。ただ、そこにいる家族が限りなくいとおしいものだと、心の底から感じて立ち尽くしていた。

 翌日の講義のあと、私はいつものように部室棟の外階段を3階まであがり、部室のドアを開けた。部室の奥に一つだけある窓の下で、薫さんがル・グウィンの本を読んでいる。気配を感じた薫さんは、ドアの前に立っている私をちらっと見上げ、
「お、顔色いいねえ」
と歌うように言った。その声に誘われるように、私は薫さんに微笑みかけた。そうせずにはいられない思いが溢れて、その感情は私の頬も瞳も口も、笑う形を自然と作っていくのだった。薫さんは不思議そうな表情で、まじまじと私を見つめていた。そして次の瞬間、薫さんが椅子から立ち上がり、私は部室のドアを開けて廊下へ滑り出て行った。背中を冷たい廊下の壁にあずけて、立ってみる。ひんやりと心が落ち着いていく。薫さんは既に私の横に居て、私と同じ姿勢で私の話を待っている。何も言わなくても、薫さんの気持ちが分かっていたし、恐らく薫さんにも私の溢れそうな感情が伝わっているだろう。私は昨日の出来事を、できるだけ冷静に事実だけが伝わるよう注意しながら話した。薫さんはいつも通り、途中で何か言葉をはさむ事はなく、「うんうん」とうなずきながら、私の言葉を聞いていた。そして私が言うべき言葉を全て消化してしまうと、口を開くのが常だった。
「すごいね……すごい。良かったじゃない……」
薫さんの笑った声を聞いて、私も思わず微笑みながら左にいる薫さんに顔を向けた。そして、私はそのまま息を飲んで薫さんを見つめた。薫さんはいつも通りの微笑を浮かべながら、いくつもの涙の筋を頬に落としていたのだった。
「ごめんごめん。なんか話し聞いてたら私のほうが泣けてきちゃった」
薫さんは明るく笑いながら、ポケットからハンカチを取出した。それでも薫さんの笑った目からは、涙の粒があふれて止まらなかった。
その涙を見ていた私は、胸の奥がぐっと痛くなった。そしてそれはこらえ切れない嘔吐の様に私の中から溢れ出してきた。私の右目から涙が落ちた。一粒流れてしまうともう後はキリが無かった。
薫さんは泣き笑いの顔で、私を抱き寄せた。私はまるで幼稚園児が母親に抱かれているように、身体を折って、泣きつづけた。薫さんの涙が何度も私の手のひらに落ちてきては、薄汚れたコンクリートの床に吸い込まれていく。
「ねえ。私の父はね」
薫さんは私を抱きしめたままそう言った。
「私の父は、弟が、ゴルフクラブで殴り殺したの」
その声は、低空飛行の飛行機が、山の頂上に突っ込むように、鋭く私の胸へと飛び込んできた。
「高校最後の3月に、父が、私の大学への入学金をギャンブルで作った借金にあてようとして、離婚した母のところへ乗り込んできたの。母を殴り倒して、通帳を持っていこうとして、その時に……」
私はしゃくりあげながら、顔を上げて薫さんを見た。薫さんは、泣きながら、それでもやっぱりあの笑顔だった。
「私が殺していれば、弟はこんなに思いつめずに済んだのに、って思ったりもした。実際、クラブを振り下ろしたのは弟だったけれど、あの時私も一緒に父に向かって激しい憎悪を叩きつけていたのよ。死んでくれて良かったのかも知れないと、思ったこともあった。だけど、最後はこう思うの。ああ、それでももう一度父に会いたい、って。刑罰が決まって、弟に面会に行ったとき、弟もこう言ったの。”俺はオヤジを殺したくせに、オヤジが好きなんだ。今でも好きなんだ”って」
薫さんはそっと涙を人さし指でぬぐった。
「ありがとう、なおちゃん」
私はその言葉の意味を分からずに、ぼんやりと腫れた目で薫さんを見つめた。
「私は、あなたが家族の問題を乗り越える事を応援しながら、私自身の運命って奴と必死に戦っていたのよ。私の父はもう戻ってこないし、弟と私たちが犯した罪は消えないけれど、あなたの姿を見て、私はどんなに勇気づけられたか分からない」
薫さんの瞳が、ゆっくりと力を取り戻していく。薫さんの手がかすかに震えているのに気付く。この人も、本当は人知れず震えながら夜を越えてきたのに違いない。
「良かった。本当に、良かった。私も頑張れる。きっと諦めないで歩いていける……」
私は再び声を殺して泣き始めた。それは、自分への涙ではなかった。薫さんがずっと心に冷たい水を浴びながら、毎日笑顔を絶やさなかったわけが、ようやく分かったからだった。彼女も泣けなかったのだ。笑うしかなかったのだ。私よりもずっと重い鎖を引きずりながら、1日1日を乗り越えていく痛みが、私には肌を突き刺す釘のようにずっしりと感じられた。人の幸せを本気で祈ったのは、それが初めてだったかも知れない。
 部室を開けて私たちのただならぬ気配を感じた何人かは、黙ってドアを閉めて中へ戻っていった。何も言わずに見守ってくれる心温かな友人が、その頃の私には、たくさん居たのだった。


 その後すぐに父が更正(と言うのも変だけど)したわけではない。何度も同じ間違いをして、また這い上がる事の繰り返しだった。それでも、少しづつ、私達の生活は上を向いて行った。父の酒量はコップに数ミリずつ減っていき、少しずつ家族の会話が、当たり前の家族のそれに近づいていった。
 やがて薫さんは地元の山梨で教職につき、私は貿易関係の会社に勤め始めた。時と共に段々と連絡を取る機会が減っていったけれど、手紙やはがきのやりとりは続いた。時に優しく、時に厳しい薫さんの言葉は、端正な文字で私の元へとやって来て、学生の頃と変わらぬさばさばとした調子で私を勇気づけてくれるのだ。


 時は誰にも平等に、正確に過ぎていく。あの頃、夢の世界の事のように感じていた21世紀が現実にやってきて、バブルの時代は遠いおとぎ話となった。
 今はもう私も30歳になり、薫さんはもうすぐ33歳だ。そして薫さんの新しい人生が始まる事を知った……懐かしい思いに、私は携帯電話を手に取った。

「もしもし」
学生の頃と少しも変わらない、明るい声が聞こえてくる。あの頃は携帯電話なんてなかった。黒電話にしがみついて、長電話をした夜を思い出す。
「なおです。はがき見ましたよ、おめでとうございます」
私がそう言うと、
「あらなおちゃん!ありがとう」
とワントーン高くなった声がビンビンと響いてきた。
「ねえ、私もうダンナと一緒に住んでるのよ。今度遊びにおいでよ。車で2時間もかからないんだからさ」
勝手にまくしたてるのも相変わらずだ。私は苦笑しながら
「お邪魔かと思って」
と言ってみた。
「首しめられたいの?退屈なのよ、知らないところに引っ越してさあ」
「わかりましたってば。薫さんをもらってくれたありがたいダンナ様見せてもらいに行きますよ」
「何いってんの、私と結婚できて死ぬほど嬉しいのはあっちの方なのよ」
私は思わず吹き出した。「ダンナ」と発音するその声はドーナツのように甘いのに、なんて可愛いうそをつく人だろう。
私は笑いながら、次の土曜日に、薫さんの新居を訪ねる約束をした。
電話を切ろうとしたその時、薫さんが
「あ、待って」
と言った。
「ねえ。ご家族は元気?」
「あ、はい、お陰様で全員ぴんぴんしてます」
「そうか。良かった」
薫さんの微笑みが見えそうな、優しい声が聞こえた。
「うちもね、母と弟が一緒に住み始めてね」
あの10年以上も前の光景がふと浮かんだ。
「なんかやっと、自分を振り返ることに興味が出てさ。そしたら結婚もいいかなあとか、思うようになったのよ。あんたもきっとおんなじなんだろうね。今はまだ、結婚なんかに興味を持てないんだろうね。色んなこと、あったものね」
私の手は、じっとりと汗ばんでいた。薫さんの顔が見たかった。
「幸せになりたいね。幸せになろうって思ってるんだ、私。周りの人全部巻き込んで、幸せになっちゃおう、ってさ」
「そうですよね」
「うん。あんたも巻き込んであげるからね。幸せの渦に」
「え」
「なーんて、勿論これはおのろけ」
薫さんは高い声で笑って、
「じゃあ来週ね」
という言葉を残し唐突に電話を切った。
薫さんの照れ隠しだと言うことは、もう分かっている。おのろけじゃない。薫さんは、本当に、周りにいる人達全てを幸せにしたいって思っている。自分と、そして周りに居る全ての人が幸せであることの、その意味を一番知っている人だから。

 薫さん。
どうしてあなたにはいつも見透かされっぱなしなんだろう。
どうして私が、結婚に興味を持てずにいることがわかったんだろう。

私にはまだ、自分の家族を築く自信がない。
母と同じ辛い結婚を味わいたくない。その気持ちが強すぎる。

結婚が全てじゃないけれど。
でも、結婚しない事が全てでもない。

薫さん。
私はまだまだあなたに、色んな話しをしなくちゃ駄目みたい。
そして色んな話しを聞きたい。

来週、薫さんに会いに行く。
そこから私の人生が、変わって行くかどうかは分からないけれど。

変わらなくても変わっても。
幸せになりたいね。
幸せになっていきたいね。あなたも、私も。

春を待っているのはもうやめる。春まで歩いていく。もう一度窓を開け放つと、季節が捉まえられるのを待ちながら、空を漂っている。ひゅんと吹き込んできた風が、立てかけてあった薫さんのはがきを、紙飛行機のように、ふわっと舞い上げて過ぎていった。
                                   (完)