マモル


 昨夜の雪はすっかりやんで、雪布団が街をすっかりくるんでしまったのを、太陽とマモルだけが見ている。元旦の朝はまだ人影もなくて、玄関に面した道路はがちがちに凍りついていた。
「ワン!」
 思いがけないくらい近くで、突然犬の声がして、マモルはびくんと全身を波打たせた。振り返ると、白い毛で目元の半分を覆われたスコッチテリアが、隣の家との垣根の隙間から首を出してこちらを見ているのだった。垣根の向こう側にある体の先に、尻尾が大きく揺れている。
「お前だれ? 見たこと無いなあ」
 マモルは思わず身構えてスコッチテリアのピカピカ光る黒い鼻先を見つめた。よく見るとその鼻はひくひく微妙に伸縮していて、風に乗って届くマモルの匂いを確認しようとしているのだと分かる。マモルは一応知らん顔を決め込んで、庭先に積もった白い布団の上にそっと踏み出してみた。
 さくっ。
 パウダースノーとはいかないが、それでもまっさらな雪に、真っ先に自分の足跡がついたことに、ひそかな喜びを見いだす。
 さくっ、さくっ。
 二歩目、三歩目と踏み出すたびに、その喜びは段々高揚へと形を変えていく。
「やっほぅ!!」
 マモルは思わず声を上げて、ぴょんぴょんと二回、空へ向かってジャンプした。
「楽しそうねえ」
 ふいに声が降ってきて、マモルはさくりと踏み込んだ足をぎゅっと止める。さっきのスコッチテリア?思わず垣根を眺めるが、スコッチテリアは自分の庭の探検を始めたらしく、ふんふんと鼻を鳴らしながら植木鉢の根元に顔を突っ込んでいるところだった。
 おかしいな、と、首をひねった先に、その人はいた。ヘルメットをかぶり、濃い色のコートで装備した、そう、その格好は郵便配達の……お姉さん?
「いいわね、自由で」
 ヘルメットの下に丸い目が二つ。くるくると黒目がよく動く。手にした白いカードを軽く頭の上で振り、
「私は元旦からお仕事。おめでたいってこのことね」
 と、ため息混じりにマモルを見下ろしてつぶやいた。マモルは思わずおずおずと門の側まで出て行ってしまう。白いカードは恐らく年賀状に違いない。いつもなら配達に訪れる郵便配達人の側へ寄るなんてしないけれど、年賀状なら話は別だ。大好きなパパからの年賀状が届くに違いないからだ。マモルの家のパパは、長いこと海外出張へ出ていて、仕事の性質上お正月に日本へ戻ることは出来ない。だから、パパからは毎年家に年賀状が届く。そしてその年賀状には、必ず家族一人一人に対して、短いけれど思いやりにあふれた言葉が書き付けてあるのだった。マモルはその言葉をママに読んでもらうのが、毎年楽しみなのだ。
郵便配達のお姉さんは、門まで出てきたマモルをじっと見つめた。マモルは思わず目をそらす。知らない人とこうして向き合うのは苦手だ。
「かわいいわね」
 お姉さんがふっと息を漏らす。やわらかな声に誘われてもう一度お姉さんを見上げると、雪の反射を受けて、白い肌がまぶしく輝いた。
「私ね、この近くに住んでたことあるのよ」
 お姉さんは、マモルの目を見つめながら独り言のようにそう言った。
 この近く?
 マモルはお姉さんの話の続きを待った。
「あっちのさ、ほら、あれ見えるかな? 白い壁で、二階の窓に小さなステンドグラスがある家。私、あそこに住んでたんだ」
 お姉さんが指差す方をマモルは一応見たけれど、見なくても分かった。近所でも一番の、大きくて立派なお屋敷だ。あそこには大きなセントバーナードがいて、マモルが家族でその立派な門の前を通るときには、必ず鼻先を出して甘えてくる。しかしそのお屋敷の中に住んでいるのは一体どんな人たちなのか、マモルは知らない。ママならもしかしたら知っているのかも知れないけれど、とにかくその姿すら見たことがない。
「まあでも、もう引っ越して五年もたつのね。お父さんがさ、事業に失敗して競売になったのよ、あの家。家中、ぜーんぶ赤紙貼られてね。お金がないって惨めね」
 ケイバイ?アカガミ?マモルには何のことだか分からない。でもとにかく何か事情があって、あの家から追い出されてしまったんだなとだけ、理解した。
「ここはいつきても綺麗ね。私はこの街好きだったわ」
 お姉さんの声が白く凍っていくのを、マモルはぼんやりと見つめていた。マモルは、お姉さんの吐く白い息や、暖かい色をした頬や、鈴の鳴るような声のほうが、よっぽど綺麗だと思った。
「さあ、いかなくちゃ。年賀状、あなた持っていける?」
 お姉さんはいたずらっぽく笑いかけてくる。マモルは困って自分の足元の辺りを見つめるばかり。するとお姉さんは軽く笑い声を上げて、そして、マモルの頭をそっとなでた。マモルが顔を上げると、マモルの頬に手を当てて、優しく微笑んだ。
「あったかいのね」
 お姉さんの声は、凍えていた。マモルにはそれが分かった。マモルはどうしていいか分からなくて、でも何かしなくちゃと逡巡して、そしてようやく思いついた。マモルはお姉さんの手のひらにそっとキスをしたのだった。優しく優しく、お姉さんが温まるようにと、何度も何度もキスをした。
 すると、何かが頭の上に降ってきて、マモルはまた雪が?と、驚いて空を見上げた。空は抜けるような快晴だ。すると今度はマモルの目の中に、ぽつんと熱い何かが降ってきた。それがお姉さんの瞳から流れ落ちた涙だと、気がつくには少し時間がかかった。
「また来るね。また遊んでね」
 お姉さんは涙をぬぐおうともせず、マモルの頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、喉の奥でそう言った。マモルはお姉さんが泣いている意味が分からずに戸惑っていたが、流れ落ちた涙があんなに熱かったのだから、きっとお姉さんを温めることが出来たんだろうと思うことにした。だってまた来るって言ってたし。きっとお姉さんもマモルのことを好きなんだよね。そう思ったらマモルは嬉しくなってしまった。お姉さんがコトンと音を立てて、年賀状の束を家のポストに落とし、マモルを振り返りながらバイクに戻っていくのを、ぴょんぴょん飛び跳ねながら見送った。
 赤いバイクが軽い排気音を残して去っていくと、スコッチテリアがまた垣根から首を出した。
「ワン!」
 小さいくせになんて野太い声を出すんだろう。マモルは呆れたけれど、でも、なんだかどんなことも許せるような気がしていた。
「マモル! おうちへ入りなさい」
 ママの声がしていきなり玄関のドアが開く。まだ朝起き抜けのジャージ姿のままだ。でも、そのジャージの胸に飛び込むのが、マモルは大好きだった。ママは寒そうに一瞬身を縮め、サンダルをつっかけてポストを覗き込んだ。
「あら、年賀状来てる。珍しいわね、郵便配達が来たのに、あなた吠えなかったの」
 ママは優しくマモルを見下ろした。マモルはぴんと立てた尻尾をゆらゆらと左右に振りながら、ママの足元へ寄り添う。
「まあ雪の中をはしゃぎまわったの? 庭に可愛い足跡がいっぱい」
 ママは甲高い笑い声を上げて、玄関のドアを大きく開いた。
「さあ、おうちへ入りましょ。あ、ほら、パパから年賀状来てる。マモルにも何か書いてあるわよ」
 マモルは玄関先を軽く走って家の中へと飛びこんだ。
「こら! 足を拭いてからでしょ!」
 ママに一喝されてきゅんと縮こまっていると、リビングから出てきたお兄ちゃんが笑いながらマモルを抱き上げた。
「うわあ、肉球が冷たくなってるよ。マモル、雪の中で一人で遊んでたのか」
 お湯で絞った雑巾でお兄ちゃんがマモルの足をふき取りながら話しかける。マモルは、パパの年賀状を届けてくれた郵便配達のお姉さんのことを、何とか伝えたいと思ったけれど、そんなに複雑なおしゃべりは、マモルには困難だった。だからマモルは、その冷たく濡れた鼻先を、お兄ちゃんの頬に押し当て、それからペロンとキスをした。お兄ちゃんは短く笑い声をあげた。
「あ、言い忘れた。マモル、明けましておめでとう。今年も元気で長生きしろよ」
 お兄ちゃんはやさしく微笑んで、マモルの鼻先をそっとひとさし指で二回はじいた。マモルはこの一月で満十歳を迎える。犬の寿命から言えば既に老齢期だが、マモルは元気だ。マモルが元気でいる限り、どんな嵐があっても、結構楽しくやっていけそうだと、お兄ちゃんはマモルをリビングに放しながらそう思う。


2005年 元旦