僕が最後に彼女に会ったのは、11月もあと数日で終わるというよく晴れた日曜日だった。僕たちは8年間の恋人時代を終えて、12月に夫婦になる約束だった。その日も僕たちは東京の郊外にある結婚式場へ行き、披露宴の料理の確認や、司会者とのコミュニケーションや、引き出物のカタログの手配やらで、美しい日曜日をあわただしく過ごしていた。 打ち合わせを終えて、外に出たときには、既に冬の短い一日が終わりかけていた。夕暮れ独特の薄紫が、西から東へグラデーションを作って紺に変わる。そこには小さな星がいくつかと、正確な球体を保った月が静かに輝き始めていた。 彼女は僕のランドクルーザの助手席に乗り込む直前に、そっと空を見上げて、小さく息をついた。彼女の白いコートの裾が扉に吸い込まれるまで、その小さな息使いが余韻のように空気に漂うのを僕は呆然として見つめていた。彼女の小さな溜息は、もうすぐ僕の妻になる女性のそれとは思えないほど、暗い絶望を含んでいたからだ。 僕と彼女が出会って既に10年が過ぎたけれど、その間一度も感じたことの無い、新たな絶望だと思えてならなかった。 車に乗り込んでしまうと、助手席の彼女は、いつも通りの彼女だった。 「お腹すいちゃったね」 屈託なく言って、襟元のグレーのマフラーを緩めている姿は、僕の可愛い恋人でしかなかった。僕はうなずき、通りすがりの適当なレストランに車を入れて食事をとることにした。 小さなイタリアンレストランで、木製の華奢なテーブルにつくと、彼女はトマトのパスタとルッコラのサラダを選び、僕はチキンの香草焼きとトマトとチーズのサラダを頼んだ。食事の間中、2人の間に冷たい空気が流れる事は一度もなかったし、彼女は溜息をつかなかった。 さっきの絶望は、僕の思い過ごしだ。 僕は1人安堵して、ほんの少しはしゃいだ気分にもなったが、彼女にそんなことを悟られるのはごめんだった。だからただいつもの様に、2人で暮らす部屋のレイアウトなんかを、親しみをこめて語り続けるだけだった。 会計を終えて店の外へ出ると、先に出ていた彼女がぼんやりと空を見上げていた。 肩より少し長い髪が、冷たい光の中で儚げな直線を描いている。寒いからと言って、車のキーを渡しておいたのに。車の中で待つように言ったのだ。 「冷えるよ、何してるの?」 僕はそう声をかけて彼女の背中に近づいた。 彼女は少しだけこちらに首を回したが、そのまま振り返ろうとはしなかった。僕は彼女を背中からそっと抱きしめようとした。しかし、僕の腕が包み込む前に、彼女はするりと逃げていく。 彼女はランドクルーザのキーを開けて、ゆっくり扉を開いていた。取り残された気分のまま、車に向かいながら、彼女が見上げていた方へ首を上げる。 そこには天高く上った満月がいた。美しい月が鎮座する夜空。冬もいい。そう思えるひと時だ。 僕は運転席に乗り込みながら彼女に声をかけた。 「綺麗な月だね。月が存在するっていうのは、寒い冬を乗り越えるために必要な事実だね」 僕のおどけた声が車内に響いてしまうと、寒さが増したような気がした。僕は慌ててエアコンの温度設定をぐっと上げた。 「月があるなんて、本当に思っているの?」 彼女が聞いた。僕は思わず助手席の彼女を見つめた。暗い車内で、彼女の表情がよくうかがえない。しかしその声は、夕暮れの中で聞いた、あの溜息に秘められた絶望によく似ていた。フロントガラスから白い月光が差し込んでいる。 「宇宙にあるだろう?」 僕はポケットから煙草を取り出しながら言った。30年以上も前から人類が踏みしめている星じゃないか。 「月が存在しないなら、あれは一体なんだ?」 窓の外に顔を向ける。月は相変わらずそこにいる。白い光を放つ、触れられない球体。 「あれは単なる宇宙にあいた穴よ」 彼女があっさりと事も無げに答えた。僕はターボライターを手に持ったままの姿勢で動けなくなった。 「あれは存在じゃない。ただの風穴。夜の空にぽっかりあいた穴よ」 彼女の瞳をじっと見つめる。まっすぐな前髪に縁取られた、いつも微笑んでいる瞳。しかし今の彼女の瞳は空虚だった。黒い瞳には、なんの炎も燃えていなかった。 それは、僕にふさぎきれない風穴を思い出させた。不安は僕の胸を駈け上げって喉元まで焦げ付かせている。僕の左腕がたまらず彼女の肩を乱暴に引き寄せる。 「痛いよ」 彼女は僕の手を、そっと押しのけた。 「あなたの目には、そこにある、と映る。でも、どうしてそうだと言い切れるの?」 彼女の目が、今度ははっきりと僕を捕らえて言った。 そこには、すでにないものを、ある、と思っている自分……? 月を見上げてみる。相変わらず、そこに銀の月がいる。ウサギ型の影も消えた、天上の満月。あれがただの穴だって……? 「かぐや姫は、あの穴を通って、地球へやってきて、またあそこを通って宇宙へ帰ったってわけよ」 彼女の声が、微妙にトーンを落とした。ギターのチューニングがわずかにずれたような、心を乱す小さな声の変化。彼女の右目から、するっとしずくが落ちていく。月光を浴びてわずかに光を帯びた涙は静かに僕の手の甲へ落ちてくる。 僕の手の中に、彼女の心があるのかどうか。彼女の言葉と彼女の涙。一体どちらを信じれば、僕は歩き出せるのだろう。この8年間の中で、組み立ててきたものばかりではなかったのか?壊し続けてきたものがあるのか?そしてそれは彼女の心なのか?答えはもう出ているはずだ。そして僕も彼女もそれを知っている。 それでも知らない振りで、ありふれた生活を手に入れる事を強く強く祈る。 「君は・・・・僕の前には居ない人なんだろうか?」 声が震えてくるのを抑えられない。僕はこんなに下らない人間だっただろうか。 「時間がたてば、みんななくなっていくのよ」 彼女の静かな声が吐息のようにもれてくる。 「この瞳だって、私が死んでしまえば、ただ骸骨にあいた、真っ黒な穴になるだけ」 月はただの風穴で、遠い世界の美しい光をこちら側へと運んでくるだけ。彼女の瞳は骸骨にあいた穴で、彼女の不在を告げる防犯スコープだ。 「それでも」 僕は彼女の手を握り締める。 「それでも、僕は何も無いその穴を抱いていたい」 その言葉を言ってしまってから、僕は後悔した。彼女の左目から、次のしずくが流れてきたからだ。彼女を悲しませるつもりはなかった。僕は彼女を幸せにしたかった。 その日、どうやって彼女と別れたのか、僕にはあまり記憶がない。ただもう一言も話さず、車を走らせていた。彼女の薬指にはまっていた小さなダイヤモンドが、ダッシュボードに転がっている場面だけがはっきりと脳裏に浮かぶ。 彼女がその後どうしたのか、彼女は本当はどんな気持ちでいたのか、僕には確かめる術さえない。 僕は彼女と別れたあと、1人車を走らせていた。そして1人、小さな川辺に立っていた。彼女と何度も訪れた、穏やかな流れの川。 僕は橋の上から、長い間その風景を眺めていた。心は彼女を求めていた。彼女の心がなくなってしまったとしても。取り戻す努力が必要だ。 明日もう一度彼女に会いに行こう。そしてもう一度彼女を抱きしめよう。 その時、僕の背中に強い衝撃が走った。人間の気配がした。激しい息使いがして、僕の身体が浮き上がった。僕は抵抗する間もなく、川へと突き落とされた。運悪く、大きな岩にぶつかってその川の流れのままに僕の身体は運ばれていった。 僕は1人、命を落とした。 僕が彼女とのことで思い悩んだ末に、自殺をしたなどと思っていないだろうか。 僕は君を愛していて、もう一度君を捕まえようと決意したばかりだった。 もし彼女に会えるなら。もう一度会えるなら。 僕は死んでしまったけれど。 それは僕の意思ではなく、君のせいでもない。 もう一度生まれ変わったら、今度は君をちゃんと捕まえてみせる。 永遠なんて、恐らくこの世の中にはほとんど存在しないけれど。 でも、必ずある。 君を幸せにしたいと、真剣に思っていた。君を理解できなかった僕がいた。 月を見るたびに君が泣いていないだろうか。 僕はそれだけが気がかりだ。 |