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Vサイン
(改稿版)

  ポンポンと柔らかな音色で、「ゆうやけこやけ」のメロディが聞こえてくる。時を忘れて遊びまわる子供たちに帰宅を促がすスピーカーの音は、かすかにこだまして大人の胸の琴線をそっと撫でたりする。多忙の真ん中にいる恵子の心にさえそのメロディーは流れ込み、誘われたようにふっと顔をあげた。
 もう夕方の五時なのだ。洗い場の壁には小さな窓がついていて、そこから薄紅の光が、ジャガイモを洗っている恵子の手元に投げ出されてくる。そのあたたかで甘い夕日の色を見て、ああ今日は晴れていたんだなとやっと意識する程、時間に追われるめまぐるしい毎日だった。天気について何か思うことがあるとすれば、洗濯物の乾かない雨の日だけだった。
 突然雨が降り出したとして、それにさえ気付かずに仕事をしている事もある。三歳になる娘の実伊子(みいこ)が、炊事場の入り口からひょっこり頭を出して
「ママ、雨よ、おせんたくもの、ぬれちゃうよ」
 と、おずおず言うのを聞いて、慌てて部屋へ駆け上がっていくのが常だった。
 溜息をついてホーローの作業台に視線を戻せば、そこには山と積まれたジャガイモが、無言で恵子を監視している。ごつごつとした大人の握りこぶしほどもあるジャガイモを、全て剥き身にするその時間の長さを思って、もう一度ふうっと溜息をついてみる。
 もうすぐ仕事から帰ってきた男たちが、この食堂に群がるのだ。まるで子供が落としてしまった飴玉に、わっと蟻が群がるように。
 炊事場から顔を上げて食堂を見渡すと、古びた六人がけのテーブルが並んでいるのが見える。その数は十五。オレンジ色のビニールがはられているイスは九十五。毎朝ひとつ、ふたつ、と、数を数えながらテーブルを磨きイスをそろえているうちにその数はしっかりと恵子の頭の中に刻み込まれてしまった。誰かがのんびり外で煙草を吸いたいとイスを一脚持ち出してしまったとしたら、すぐに「芦田さん、イス持っていきっ放しでしょ」と、抗議の声を上げる事が出来るくらい見慣れた風景だ。
 恵子がこの運送会社の社員食堂で、男たちのために食事を作る仕事を始めてから、もう一年が経とうとしている。それは夫が姿を消してから流れた年月だ。夫が居なくなってから、恵子はただ娘と二人、暮らしていく事に没頭してきた。
 夫はある日仕事に行くと言って出かけたまま戻ってこなくなった。まだ物心もつかない子供を抱えて、捜索願いを出しにいくその不安な気持ちを馬鹿にするように、一週間が経った頃にその所在について連絡が入った。相手は夫ではなく、夫の母親だった。夫は女を連れて、故郷である福岡へ逃げていた。当面の金を無心するために実家を訪れたという。女の名前に聞き覚えはなかった。
「恵子さん。あん子はもう駄目ったい。あげな男とおるとあんたの人生も駄目になる。あたしはあん子を一人前に育てる事が出来んかった。申し訳なか」
 夫の母親は電話口で何度も恵子に謝り、最後には泣き崩れた。電話の向こうから、おい、代われ、という低い声がして、夫の父親が電話を引き継いだ。
「恵子さん? 申し訳なかです。あいつ、金を無心してそのまんま出ていきよった。今どこにおるかも分からんとです。必ず見つけ出しますけ、離婚届を用意しとってください。これ以上あんたに迷惑かけるわけにはいかん」
 義父の冷静な声を聞きながら、恵子は言葉を捜して逡巡した。どうして探し出して東京へ引きずっていくと言ってくれないのだろう。子供はどうすればいいのだろう。離婚して、私はどうすればいいのだろう。受話器を握り締めた左手がじっとりと汗ばんでいた。みぞおちのあたりがぎゅうと締め付けられる感じがした。
「あいつの連れてきた女のお腹に、赤ん坊がおるとですよ。あの阿呆が」
 義父が吐き捨てるように言ったその一言で、恵子の頭からすうっと血の気が引いた。暗闇が降りてきて気分が悪くなり、意識を失いそうになるのを壁に手をついてどうにかやりすごした。
 そのあと電話で話したことは覚えていない。ただはっきりとしているのは、もう一度夫とやり直したいなどという甘い気持ちが、跡形もなく消え去っていると言う事だった。あんな男を父親だと、実伊子に思わせることが悔しかった。その男を信じて、愛して、家庭を築いた自分の人生が惨めだった。夫は私たちを捨てたつもりだろうが、それは違う。私と実伊子が、あの男を捨てるのだ。生ゴミの袋にぽんと詰め込んで、その袋の頭をぎゅっとかた結びにして、一度も顧みることなくゴミ置き場へ置いてくるのだ。そして昨日出したゴミ袋の中身など今日はすっかり忘れているのと同じように、夫の事は忘れる。憎しみも愛情も、あの男にかけるべき感情ではない。
 離婚の条件はほとんど出さなかった。唯一あげた条件は
「どんな間違いがあっても、決して私たちの前に姿をあらわさないこと」。
 少しでも父親の顔をして欲しくなかったし、少しでも夫の顔をして欲しくはなかった。私たちの人生に今後一度たりとも登場してはいけない人物だと自覚して欲しかった。その気持ちは、多少なりとも夫の心に衝撃を与えるのではないかと恵子は思っていた。少しでも「悪い事をした」と、反省の気持ちでこちらを振り返るのではないかと、淡い期待を抱いていた。しかし夫は既に他人になる準備を整えていて、一瞬のためらいさえも感じさせない素早さで離れていった。恵子が出した条件は、こちらが頼むまでもないことだった。
 夫は最後まで自分から電話をかけてはこなかった。夫の両親が夫を探し出し、恵子の郵送した離婚届に判を押させ、恵子の伝言を伝えたのだ。「恵子のいう通りにする」という夫からの返事は、夫の母親から電話で聞かされた。実伊子への伝言はないかしばらく沈黙して待ってみたが、「それじゃ、これで」と、消え入りそうな母親の声を最後に回線はぷつりと切れた。送り返されてきた離婚届さえ、夫の手によって投函されたものではないと分かる。封筒の文字は夫の文字ではなかったから。
 けれどそれでかえって踏ん切りがついた。人間として尊敬すべきところが何もないと分かれば、そんな男に生涯をささげる事が馬鹿らしくなってくる。もう、いい。私は、実伊子と生きていく。
 決意を込めて覗いた鏡の中には、二十代最後の年を迎えた女にしては、やけに疲れた肌の自分がいた。肩まで伸びた髪には艶が無く、白いものが目立った。
 冗談じゃない。私は、生きていかなければならないのだ。立ち止まったら転がり落ちるだけだ。
 恵子はしぼんでしまった頬に化粧水をぱしゃぱしゃと叩き込んだ。くすんだ肌が少しずつ落ち着いていくのを鏡に映しこみながら、自分の丸い瞳をじっと見つめる。鏡台の前に並べた化粧品の中から金色の容器の口紅を取り上げて、中身を繰り出すと珊瑚色の円筒が顔を出す。一瞬躊躇してから、その珊瑚色を赤みのない唇に押し当てる。私は生きていくのだ。そう言い聞かせながら、珊瑚色を何度も唇の上で往復させる。そして唐突にその口紅をゴミ箱に向かって放り投げた。口紅はゴミ箱には入らず、窓ガラスにあたって「カチン」と、冷たい音をたてた。衝撃で珊瑚色は途中で折れ、金色の容器から見捨てられたように畳の上を転がっていった。夫が似合うと言った珊瑚色。夫の金で与えられた口紅。
 恵子は手の甲で唇をぎゅうぎゅうとこすった。珊瑚色は唇からはみ出して頬に上向きの曲線を描いている。洗面所に駆け込んで勢いよく水を流す。冷たい水を手のひらですくっては唇をこする。この水の中で窒息してしまいたい。馬鹿げたことを真剣に願っている自分に気づいた時、どっと涙が押し寄せてきた。
 恵子は蛇口を閉めずに、声をあげて泣いた。夫が出て行ってからはじめて流した涙だった。

 近くに身よりも無く、保育園に子供を預けるだけの収入も持たない恵子にとって、住み込みで働けるこの社員食堂は願ってもない職場だった。
 食堂には恵子の他にあと二人の女が居て、その二人も恵子と似たり寄ったりの境遇だった。子供たちは母親と一緒に朝の五時には起きて、社員食堂へ降り、食堂の中や会社の敷地の中で時間をすごす。 女達は戦争のような食事時の忙しさを過ぎれば、家事をしに部屋へ戻る事も、子供の相手をする事も出来るのだ。
 恵子は一度だけ、やはり住み込みで都心のクラブに務めようとしたことがあった。友人に離婚した事を告げた時、彼女もそのクラブでホステスのアルバイトをしていて、その気があるなら店のママに紹介してあげると言われたのだ。実伊子を抱いて出かけた店は、客のいない昼間の時間帯であったため白々とした照明で覆われており、古びた緑色のビロードのソファがやけに目立った。
 実伊子をそのソファに座らせて、自分は立ったままオーナーを待った。白いワンピースの裾のほつれに気付いて少しだけ裾をめくり上げてみたところで友人がママを連れて店内へ入ってきた。
「綺麗な足ね」
 ゆるいウェーブのかかった長い髪を首の後ろで束ねながら、ママは静かに微笑んだ。化粧はしていなかったが、すっきりとしたアーモンド形の目と、小さな唇を持った、魅力的な女性だった。女の恵子が思わず見とれるくらい、ぎゅっと引き締まったウエストが印象的で、男性が「守ってあげたい」と思わずにいられないような小柄な身体だ。しかし深いVネックのタンクトップからは、丸いふくらみが中央に寄せられてはちきれそうになっている。ムスクの混じったバラの香りの香水が、恵子を取り巻いてまとわりついてくる。強烈な女の匂いに圧倒されて、恵子は言葉が出なかった。
 その間に、ママは恵子を上から下までさっと眺め、興味を失ったように冷たい瞳をして、何かを紙に書き付けていた。
「確認して。あなたがこの店で働くとして、私があなたに出せる条件はこれよ」
 涼やかなママの声に慌てて顔を上げる。実伊子がふいにむずがって、ソファを降りようとする。思わず抱き上げようとするより一瞬早く、ママが実伊子の前に膝をずらして座り込み、ぷうっと頬を膨らませて見せた。実伊子はびっくりしてママの顔を見つめ、ふいににっこり微笑むと、ママの前髪にそっと触れた。ママはされるがままで、実伊子の足の裏を人さし指の腹でこちょこちょと撫でる。実伊子がはじけるように笑って、ママも一緒に笑い声を上げる。無邪気な横顔に、この人は私より年下かも知れないと、恵子は思った。
 ママが書き付けた条件に、恵子は息を飲んだ。
「こんなにいい条件で?」
 かすれた声を押し出してから、咳払いをする。店が用意してくれた家賃の安いアパートも、店と提携している託児所も、そして何より一晩で稼げるお金の額も、何もかもが魅力的だった。
「そうよ。あなたは綺麗だし、性格もいいわ。それにこの仕事はそれほど楽なものでもないから」
 ママは実伊子から目を離さずに歌うように答えた。会って数分で私の何が分かったのだろう。疑問が沸いたが、ママの鋭い視線が恵子を捉えた瞬間言葉を失った。その視線に耐えられるだけの、強い言葉を探し当てる事は出来なかった。女の品定めについては、彼女なりの選別方法があって、それに長い時間を割くほど暇ではないのだろう。それに生活がかかっている。今すぐにでも働かなければならない。
「宜しくお願いします」
 小さく言って頭を下げる。隣で煙草をふかしていた友人がすっと醒めた表情になっていくのを、目の端で捉えながら、給料の振込先などを書類に書き込んだ。嫌な気持ちにはなったが、書類を書く手を止めはしなかった。
 ママの言った通り、それほど楽な仕事ではないと知ったのはそれから数日後の初出勤の夜だった。一晩慣れない酒を飲み、男の濁った視線にさらされ、露出した肩から背中のラインを、ささくれだった指でつーっと撫でられて、自分には向いていないと確信した。皮脂で汚れたメガネの奥から、じっと見つめる男の生臭い欲望にさらされて吐き気を催した。
「あの新しい子、いいねえ。今度からあの子専門でいこう」
 恵子が席をたったあとに、背後から客の声が追ってきた。その直後、白い細身のドレスをまとった若いホステスが何かにつまづいたふりをして、グラスの水を恵子の顔に浴びせ掛けた。
「あらごめんね。大丈夫? 化粧しなおさなくちゃね」
 そのホステスはそう言って、恵子におしぼりを渡す事もせずに客の元へ戻っていった。呆然として店内を見渡すと、友人と目があった。一部始終を見ていた様子だったが恵子と視線がぶつかると、ぷいと向こうを向いて水割りを作り始めた。恵子は雨に濡れてしまった子供のように心もとない気持ちで、一人控え室へ戻った。古びた鏡の奥に、滴り落ちる水滴が惨めな、化粧の濃い女が立っている。くるくるとカールを描いた髪は乱れ、水色のシフォンのワンピースは水に透けてブラジャーのラインがくっきりと浮き上がってしまっていた。気持ちも身体も浪費してしまいそうな予感が、つま先からやってくる。私、何をしてるんだろうと不安でたまらない気持ちになった。
 女達は誰も好きでこの仕事をしているわけではないだろう。では何故こんなにきらびやかに着飾った女達が何十人もこうして店にやってくるのか。それは単に支払われる報酬のためなのだ。つまりはプロ意識が女達の吐き気を止め、笑顔まで売って男たちを楽しませるのだ。
 そこにライバルが現れれば、蹴落としてでも男の気持ちを自分に集中させなければならない。店の収入は限られている。自分に支払われる報酬の割合を高くすることに、女達は真剣勝負を挑んでいる。
 自分はこの仕事で発揮できるプロ意識は持ち合わせていない。そう思ったら、もらえるお金の額など頭から吹き飛んだ。店が終わった深夜、辞めさせていただきますと、ママに告げたがママは理由を問わなかった。
「そう。じゃあ今日一日分のお給料だけは振り込んでおきますから」
 なんの感情もこもらない声でそう言い、じゃ、お疲れ様、と後ろも振り返らずに店を出ていった。多分こんな事は日常茶飯事なのだろう。浅はかな仕事の選択とその失敗を経験して、恵子は二度と水商売には手を出すまいと決意したのだった。紹介してくれた友人には不義理を詫びる電話を入れたが、
「あなたなら結構いい線いったと思うから残念ね。でもいいのよ、気にしなくて」
と、晴れ晴れとした声で言われて、その表情は一体どんなものだろうと想像すると寒気がした。そしてそれきり友人との連絡を意識的に絶ってしまった。
 その後夫が勤めていた会社の、親切な上司が、恵子を不憫に思ったのかこの運送会社を紹介してくれた。恵子にしてみれば、暗い店内で、したたか酔った男たちに胸を鷲づかみにされ、刃物の上を歩くような女達とのやりとりを続けるよりも、割ぽう着を着て汗だくになって食事を作る方がよほどありがたい仕事だった。

「恵子ちゃん、お腹すいたよ」
 早く帰ってきた男たちが、既に食堂のテーブルでわめき始める。恵子は慌てて大きな炊飯器を開け、炊き上がったばかりのご飯をかき混ぜる。他の二人の女達も慌しく皿に魚の煮つけを盛り付け、キャベツの千切りを水から上げている。
 それを合図にしたかのように、汗の匂いをさせて男たちが次々に食堂へ入ってきた。立ちのぼる味噌汁の湯気と、賑やかな笑い声と、派手に皿を落とす音が、あっという間に恵子の脳を支配して、次々に差し出される大きな手のひらに夕食を載せた皿を手渡す事が全てになる。
「今日さあ、首都高で六台玉突きあっただろ?」
「ああ、俺も見た見た」
「すごかったよな? 俺見ちゃったんだよ、内臓出ちゃってるタクシーの運転手」
「あれってタンクローリーも居ただろう? 火事になってたら大変だったよなあ」
 そんな話をしながら、男たちの箸は全く止まる事がない。
「おかわりちょうだい」
 空になったどんぶりを調理場に差し出されて、恵子は苦笑した。
「内臓が出たとか、そんな話しながらよくモリモリ食べられるわね」
 恵子はどんぶりにしゃもじで何回もご飯を叩き込みながら言う。二十代半ばの羽場田は茶色に染めた髪を揺らして
「そんなことで俺らの食欲が減退したら、恵子ちゃん達の仕事が減るでしょう」
 と、言って豪快に笑った。年下も年上も関係なく、恵子の事を「恵子ちゃん」と呼ぶのは、親しみの表れだ。家庭を持っている社員は、自分の部屋で家族と食事をとる。そうでない者たちがこの食堂で食事をとる。汗を流して働いた疲れを癒す家族のような存在として、食堂で働く女達を慕ってくれているのが嬉しかった。
「島袋さん、足どうしたんですか」
 一緒に働いている明美が、食事を載せたトレイを持って歩いていく島袋に声をかけた。見ると、左足をひょこひょこと引きずっている。
「古傷が痛んでね」
 振り返りながら島袋が弱々しく笑う。いつも多くは語らない人だ。真っ黒に日焼けした肌は灰色がかっていて、目尻の皺がくっきりと目立つ。五十代に入ったばかりと聞くが、もっと年上に見えた。
「事故やってると、どうしてもな。あとでいい湿布わけてやるよ」
 トレイを返しに来た山崎が快活に話しに割り込んでくる。三十代だが、誰に対しても面倒見が良くて、これで喧嘩っぱやくなければな、と、社長が嘆くのがお決まりの男だ。島袋は、ありがとうとでも言うようににっこり微笑んで、すとんとテーブルについた。
 そこへ井上がやってきた。そして底の浅い湯飲み茶碗を恵子に差し出しながら
「実伊ちゃんどこ行ったんだ?見かけないじゃないか」
 と、声をかけてきた。井上は、丸刈りの頭に、薄茶色のレンズの入ったメガネをかけていて、とても堅気という見た目ではないのだが、実はとても子供好きだった。実伊子や、ほかの子供たちを集めては、一緒になって遊んでくれた。時に実伊子のおままごとに付き合って、小さな実伊子の目の前にきちんと正座をして、「夕食が出来るのを待っている旦那さま」を演じている事さえあった。
 男たちは大抵子供を自分達と同じ立場の人間として扱ってくれていた。そして暇があれば相手をしてくれる男も少なくなかった。例えば実伊子にじゃんけんの「チョキ」を教えてくれたのは山下だ。人さし指と中指を立てることがどうしてもできなくて、人差し指だけのチョキを出すたび、山下は大笑いしてから小さな手をチョキの形にしてくれた。実伊子はしばらくそのまま固まっているが、疲れて手を開く。そしてもう一度チョキの形にチャレンジするが、また人さし指だけのチョキになる。山下が笑ってまたチョキを作る、その繰り返しをしているうちに、実伊子は「本物のチョキ」が作れるようになった。山下が夕食前に食堂に現れて、用意されているおかずのつまみ食いに成功する事がある。鳥のから揚げだの、ポテトフライだのを口に放り込む作戦が成功すると、得意げに実伊子に向かってVサインを出す。実伊子もまた、得意げに「チョキ」で返す。恵子は思わず笑いを漏らして、盗み食いを許してしまう。実伊子はそんな風にいつもこの食堂のどこかにいる。
 なのに、今日は?
 井上さんの声を聞いて、恵子ははっと顔を上げた。いつも夕食時には、無骨な男たちの邪魔にならないように、炊事場の奥の三畳ほどの控え室に、子供たちはいた。しかしその部屋からは、確かに実伊子の声は聞こえてこない。慌てて控えを覗いても、他の女の子供たちが、ぽかんとこちらを見上げただけで、実伊子の姿はなかった。
 男たちの娯楽室になっている、食堂の隣の部屋に行ってみたが、食事を終えた男たちがゴロゴロと横になっているばかりで、ここにも小さな姿はない。素早く目をやった食堂の入り口にも、窓の外の空き地にも、実伊子は居なかった。
 恵子の心臓が、早鐘を打ち始めた。ママから見えないところには行かないのよ。ママ、心配でお仕事できなくなっちゃうから。
 いつもそう言い聞かせて、そして実伊子はいつでもこっくりと頷いて、その約束を破った事などなかったのに。
「あの、ちょっとだけ、捜してきてもいいかしら」
 恵子は隣にいた明美に搾り出すようにそう聞いた。明美はくるくると周りを見回しながら、
「いいわよ、どこ行っちゃったんだろうね」
 と、快く答えてくれた。
 恵子は炊事場を飛び出し、まずトイレを見に行ってみた。以前一人でもできると言い張って個室に入り、結局内鍵を開けられなくて、一人でおいおい泣いていた事があった。古びてカビの匂いのする女子トイレのドアを開けて中を覗き込む。しかしドアの閉まっている個室は一つもない。念の為に四つある個室を全部見てまわったが、勿論実伊子は居なかった。
 続いて自分達の住んでいる部屋へ上がる。鍵が閉まっているから、一人で部屋に戻る事はないはずなのだが、もしかしたらドアの前にでも座り込んでいるかも知れない。食堂を出てすぐの階段を駆け上がり、二階の社宅へと進んだが、階段の踊り場にも、廊下にも、そして自分達の部屋の前にも、人の気配はない。
 すぐに取って返して、今度は玄関を走り出る。外はうっすらと闇が支配し始めている。
「実伊子!」
 恵子は薄闇に向かって声を張り上げた。いつも子供たちで座り込んでいる駐車場の片隅に目をやったが、周りよりも一層深い闇がそこにあるだけだった。会社の敷地を抜けて道路へ出てみる。
 まさか事故にでも? まさか誘拐にでも?
 そんな事が頭をよぎり、慌てて軽く頭を横に振る。実伊子に限ってそんな馬鹿な。あんなに甘えたがりで臆病な子なのに。一人で外へ行くなんて考えられない事だった。
「実伊子!」
 恵子の声が一層大きくなる。ふっと漂ってきた南風は暖かく、甘い香りがする。もう春の花は咲いているのだろうか。そう言えばこの一週間は、実伊子を連れてあの川の土手を散歩する事もしなかった。忙しいとかそんな理由をつけて。
「もう少ししたらたんぽぽが咲くね」
 日当たりのいい土手の草むらを見ながら、実伊子にそう話し掛けると、実伊子は嬉しそうに笑って
「つくしも咲くね」
 と、言った。
「つくしは咲くわけじゃないと思うけど……」
「よもぎもね、咲くね」
 恵子の言葉を遮るように、実伊子はにっこり笑って言う。
「あと、イタドリもね。咲くねえ」
 その実伊子の言葉を聞いて、恵子は胸を突かれた。つくしもよもぎもイタドリも、夫が春になると捕ってきて自分で調理したものばかりだった。酒好きだった夫は、季節のものを自分で調理して、酒の肴にするのが楽しみだったのだ。
 春になったら、つくしを摘みに行こうね。パパと一緒にね。よもぎを摘もうね。パパが喜ぶから。
 そんな風に言った言葉を、たった三歳の子供が覚えているものかどうか分からない。けれど、この子は、私が喜ぶと思って、つくしやよもぎやイタドリの名前を口にしているようだ。一体子供と言うのはどれだけ不思議で、どれだけ無限でどれだけ優しいのだろう。

 ソシテ オトナハ ナンテ ザンコクデ ユウゲン ナノダロウ。

 ぼんやりと、緑色の濃くなった土手の美しい稜線を見つめながら、恵子は昨夜を思い出していた。

 昨夜、私は山下に抱かれた。

 そう思ったら何故か、さあっと鳥肌がたった。

 運送会社の独身寮に住んでいる山下は、恵子がこの会社に住み込み始めた時から、よく声をかけてきた。
「今日の夜は何作ってくれるの? 俺餃子食いたいな」
「実伊子ちゃんは何が好きなの? 今度おいしいケーキでも買ってこようかと思ってるんだけど」
「今度の休み、実伊子ちゃん連れて、遊園地行こうよ」
 ひょろりとした背丈、目尻の下がった人懐っこい笑顔、低く柔らかい声。そのどれもが、始めは疎ましかった。生活する事に必死だった恵子の心は、常にピリピリと張りつめていたのだ。
 しかし、恵子がどんなに冷たい態度でも、山下は一向に気にする様子がなかった。
「機嫌悪いんだねえ。ごめんごめん」
 と、呆けた声で言って、のんびり去っていってしまう。そのうち、山下のその飄々とした雰囲気に包み込まれてしまっていた。始めのうちは山下を見かけるたびに強張っていた表情が、やがて声を聞くだけで微笑まずにはいられない、そんな存在になっていた。
「ねえねえ、実伊ちゃんと一緒に風呂入ってもいいかな?」
 昨日山下はそんな事を言い出した。社宅にも風呂はついているのだが、独身寮にはそれがなく、共同の大きな風呂がある。そこに実伊子を連れて行くという。
「いいけど……」
 さすがに少し躊躇した。男だけの風呂場に、まだ幼いとは言え、娘を連れて行かれるなんて、と。
「ママ、お兄ちゃんと行って来ていい?」
 実伊子が思いがけず目を輝かせて言うのを聞いて、ためらいながらも、娘のタオルと小さなパンツを用意して山下に預けたのだ。
 結局実伊子は、親が心配するほど神経質ではなかった。一時間も風呂で遊び、山下をのぼせさせて帰ってきた。
「あのね、あのね、お背中にお絵かきしているおじちゃんがいたのよ」
 実伊子は頬をピンク色に染めて、興奮しながら言った。肩にかかる細い髪の先から、透明な雫が落ちるのを見て、慌ててタオルで小さな頭を包み込む。
「お絵かき?」
 恵子の疑問に、ぐったりとした山下が答える。
「ほら、岩永さんっているじゃない。あのおっさん、背中に彫り物あるんだよ。とても立派な」
「そうなの?」
 恵子はびっくりして思わず山下の顔を見つめる。岩永さん。もう五十代と思われる、無口でがっしりとした男だ。色んな場所を流れてくる人が多い仕事だから、刺青を入れている人も決して珍しいわけではないのだが、あんなに寡黙で真面目そうな人が、と思うと、その人生の紆余曲折に思い至って溜息が出た。
「実伊ちゃん恐いもの知らずでさ。岩永さんの背中にばしゃばしゃお湯かけちゃってさ」
 ガラスのコップに入った水を、一息に飲み干してから山下はそういい、実伊子を見てクスクス笑い始める。
「お湯なんかかけちゃ失礼じゃないの」
 傍らでゴムのアヒルのおもちゃをいじっている実伊子をたしなめるが、実伊子は全く聞いていない。
「いやあ、背中の絵、消してあげようと思ったんだってさ」
 山下はそこまで言って、ついに大笑いし始めた。
「それでお湯かけても消えないからって、もう身体を洗い終わった岩永さんを無理矢理つかまえて、石鹸つけたタオルでごしごしごしごしやり始めてさあ」
 恵子も我慢しきれずに、思わず笑い出した。
「岩永さん、すごく困ってて、背中真赤になるまでこすられて、それでも怒らずに気が済むまで相手してくれたの。いい人だよねえ、あの人」
 山下の楽しげな声を聞いて、恐らく岩永さんものぼせてしまったのだろうなと見当がついた。本当に申し訳ないと思いながらも、恵子は涙が出るほど笑った。実伊子は、母と山下が何について笑っているのかよく分からないようだったが、大人たちの笑顔が嬉しいらしく、ニコニコとアヒルのおもちゃを振り回して見せた。


 そんな風に笑って。実伊子が寝てしまって。

 恵子は、山下の体を受け入れた。


 重く暖かな男の身体に押し潰されながら、恵子は久しぶりに誰かに心を開く安らぎを覚えていた。
「綺麗だね」
 溜息のような声が、胸の間から聞こえてくる。山下の唇が、身体中のありとあらゆる場所を優しく這いまわるのを、恵子はただ受け入れていた。上りつめていく最後の瞬間だけ、「あっ」と声を漏らし、直後に山下の唇で口をふさがれて、それ以上甘い叫びをあげずに済んだ。もし本能の赴くままに声をあげていたら、実伊子が目を覚ましてしまっただろう。

 実伊子。

 恵子は昨夜の自分の姿を思い浮かべて、唇を噛んだ。私には男との心と身体のやりとりよりももっと大事なものがある。実伊子。どこへ行ってしまったの。

「実伊子」
 つぶやいた自分の声があまりに弱々しくて、涙が落ちてきそうだった。もう夕闇は紫色に変わっている。黒い闇が濃くなったら、実伊子が恐がるに違いない。たった一人で泣いてしまうに違いない。かといって一体どこを捜せばいいのだろう。あの子の行きそうなところはほとんど見て回ったのに。やはり誘拐だろうか。私には身代金なんか用意できっこないのに。


「ママー!」
 突然遠くから声が飛んできた。甲高く、柔らかなその声。
 道路の向こうから人影がやってくる。目を凝らしてその人影が近づいてくるのを待つ。
「ママー!」
 再び声が聞こえた。キュッキュッという、子供用のサンダルの音が恵子に向かって走ってくる。
「実伊子!」
 恵子はその声のした方へ走り出した。間違いない。実伊子の笑顔が風を切って近づいてくる。
「実伊子! 心配したのよ!」
 恵子は膝をついて、その小さな身体を受け止めた。柔らかく小さなその身体が、しっかりと恵子の腕の中で弾む。
「大学の敷地に入って遊んでいたんだって」
 頭上から降ってきた声に驚いて見上げると、山下がすぐ側に立っていた。
「あなたが見つけてくれたの?」
 恵子は震える声で尋ねる。ほっとするあまり、今にも泣き出したい気分だったのだ。
「俺が誘拐したんだよ」
 山下の声に、恵子は凍りついた。思わず噛み付きそうな顔できっと山下を睨みつけた。そんな事をするはずがないと頭では分かっていても、子供を失う不安を噛みしめたあとでは、その言葉の残酷な刺に牙を剥きたくなるのだった。
「あれ、うそうそ、冗談だよ。誘拐なんかしないってば」
 山下は恵子の剣幕に押されて慌てて首を横に振る。恵子はまた脱力して実伊子の手をぎゅっと握り締める。
「実伊ちゃんを探しに行ったって聞いてさ。外を見に行ってみたんだ」
 山下はポケットに手を突っ込んで肩をすくめた。
「実伊ちゃんたち、あの近くの大学とか、そっちの廃屋とか色々冒険場所持ってるからさ。今日は大学の方で、水たまりに入って遊んでたみたいよ」
「そんな事、普段、してるの、この子……」
 恵子は腕の中の小さな実伊子をまじまじと見つめた。
「知らないの、お母さん方だけでしょ。みんなお母さんに心配かけないように、内緒で冒険してるんだよな」
 山下は笑いながら身体をかがめ、実伊子の頬を指先でそっとつついた。
「実伊子」
 恵子は思わず恐い顔を作って、実伊子をにらみつける。遠くに行っちゃだめと、あんなに言っているのに。
「怒っちゃ駄目だよ、恵子さん」
 山下は優しく遮った。
「無事に戻ってきたんだからいいじゃない。もっとちゃんと抱きしめてあげなさいよ」
 恵子は山下の目をじっと見つめた。まるで父親に諭されているような気分だ。恵子はこくんと頷いて、それから実伊子の目をじっと見つめた。丸く大きな瞳で、まっすぐにこちらを見つめている実伊子が、たまらなく愛しかった。洋服のあちこちに、泥水で作ったしみが出来ていたが、もう構わなかった。
「実伊子。ママ泣きたいくらい心配したわ。危ない事しないでね」
 恵子はぎゅっと実伊子を抱きしめた。実伊子の頭が胸の中でこくんとうなずき、小さな手が背中にぎゅっとしがみつくのを感じた。そうだ、私はこのぬくもりの為に生きているのだと、恵子は心から思った。

 実伊子の手を握り締めて部屋に戻りながら、恵子は新しい結婚について考えていた。山下という存在が、自分を少しだけ変えてくれている。これからの自分の人生を思うとき、山下がいてくれる事がどれだけプラスになるのか、その数を数えて、溜息をついた。マイナスを思い浮かべられないのは、私が少し冷静さを欠いているからじゃないかしら。そう思うと情けなくもあり、またうれしくもあった。
 そして、今日のこの出来事が、山下の仕組んだ事だったりしたら、などとふと思いついてもう一度溜息をつく。「誘拐」だなんて、あの人が言うもんだから。
 誘拐?
 『ムスメヲカエシテホシカッタラ オレノモノニナルンダ』
 身代金のかわりにこんな要求がくるとでも?
 そんな馬鹿な、と頭を振って、部屋に入る瞬間、実伊子が後ろを振り返り、誰かに向かって「チョキ」を作ったのを見た。柔らかく、細く、小さな指先が器用に折りたたまれて作るチョキのVサイン。作戦成功の合図。

 それとも?

 恵子はそのVサインの向けられた先をわざと見ないようにして、部屋のドアをそっと締めチェーンをかけた。

(了)