「俺は自分の事は自分で決めるし、この会社が親父一代で終わったからってどんな問題があるのかわかんねえよ」 大学を卒業する間際、俺が初めて父親に抗った時の言葉はこんな風だった。自分の腕一本で電気工事業の会社を立ち上げて、家族四人が不自由なく生活出来るだけの仕事をしてきた父親は、俺を自分の思う通りの「跡取り」にするのだと勝手に決めてしまっていた。姉が一人居たが、長男であると言う理由において、俺の人生は、生まれたときから全て父の思う通りに駒を進められた。 ほら次はそこ、今度はこの駒をそこへ、ああ駄目だそんなところに駒打ってどうするんだ、こっちだ。 俺がちらとでもその意志に背こうとすれば、十六歳の頃から現場で叩き上げられてきた、分厚い手のひらがなんの躊躇もなく振り上げられた。その恐怖は幼い頃熱を出すたびに見る、得体の知れない夢のように、俺を震え上がらせるものだった。それは中学生になって、父親を見おろすほど身長が伸びてからも同じ事だったし、圧倒的な腕力で、暴走族のアタマを骨折させた高校時代にも、やはり、変わらないものだった。 父に反抗して何がしかの意見を述べるなど、その時までした事がなかった。正確に言えば、そんな事は「許されなかった」のだ。 「お前何のために一浪してまで工学部入って勉強したんだ。電工やるためじゃなかったのかよ」 父親は1階の仕事場の、1本の足が短くてガタガタ言う木の椅子に腰掛けて、静かにそう言った。その目はいつも通り威厳に満ちていて、あと三センチでも動けばその喉に食いついてやると言わんばかりだった。父はいつでもこの家の中で、あるいはこの会社の中で、百獣の王なのだと誇示したがった。 しかしもう俺は子供じゃないんだ。俺は自分にそう言い聞かせた。食い殺される前にこの家を出ればいい。そう、俺はもうあるソフトウエアの作成を請け負う会社に内定をもらっている。一人で稼いでその金で暮らす。一体何処にどんな問題があるって言うんだ。 「親父が死んだ後にも、この会社を残したいって言うんなら、誰か他をあたってくれよ。俺は親父の手駒じゃねえ。俺は俺の生き方位自分で決める。そんなの普通の事だろう」 俺は仕事場のドアを背に立ち尽くしたまま、一気にそう言った。道路に面しているシャッターが、通りを走る車に煽られて「ガシャガシャガシャ」と、耳障りな音をたてる。ああそのシャッターの音も、古い木の仕事机も、棚に並べられた機材も、乱雑に積み上げられた「電気設備概要」の本も、何もかもが不愉快だ。 これは親父が作り上げた城だ。欲望とプライドと言うセメントで塗り上げた、親父だけが主と認められる、呪われた城。二階と三階に作られた家族の住処も、親父が俺達家族を「住まわせてやる」為に、「感謝させ、服従させる」為に、積み上げ式に築いただけだ。 「俺の仕事、嫌いか」 父の低い声に我に返った。正面に座っている父を見ると、味気ない白色ランプに照らし出された、職人の姿があった。仕事から帰ってきてそのままの、紺色の作業服と安全靴。ほとんど白くなってしまっている髪の毛を、右手で撫でつけながら、じっとこちらを見詰めている姿が妙に色褪せて見える。 「嫌いも何も、俺はこの会社を継ぐ気はないって事だよ。それ以外に何もない」 吐き出すように言った自分の声もまた、色を失っているように思える。 「この不景気に、職人に気使いながら、小さい仕事積み重ねたって何になる?俺は経営に四苦八苦して一生冷や冷やしながら生きるなんてごめんだね」 「そうか」 父は静かにそう言うと立ち上がった。 殴られる。 俺は咄嗟に身構えた。しかし父はそんな俺の横をゆっくりと通り過ぎて、仕事場のドアを開けて出て行ってしまった。父の足音が二階の住まいへと上っていくのを、俺はぼんやり聞いていた。 次の日も、また次の日も、父は俺に何も言わなかった。「おはよう」だとか、「おやすみ」だとか、そんな挨拶はした。しかし食卓で顔を合わせても、父はほとんど俺に話を向ける事はなく(大体家族の誰に対しても必要以上の事は何も言わなかった)、まして仕事のことになど、一切触れようとはしなかった。 最初のうちこそ気味が悪く、そのうち切れて大暴れでもするんじゃないかと気が気ではなかったが、二週間が過ぎても、父の様子は変わらなかった。 「親父、おとなしいな。病気じゃねえだろうな」 俺は母親にぼそりと言った。母は洗い物をしながら、ちらとこちらを見た。 「なんだよ。なんかあるのか?」 多少不安になりながら、その背中に問い掛けると、母はくすりと笑った。 「父さんが病気なんてあるわけないでしょう。丈夫をとったらあの人の長所がほとんどなくなってしまう」 母ののん気な声を聞くと、思わず笑いが漏れた。 「あんた時間大丈夫なの」 母に言われて時計を見ると、もう昼の十二時を回っている。一時からのゼミに出なければならない俺は慌ててテーブルの上のカップを母に渡して、立ち上がった。 「父さんね、この会社、自分の代で終わってもいいんだって」 受け取ったカップを洗い桶の中に沈めながら、唐突に母が言った。 「え?」 左腕をGジャンに突っ込みかけたまま、母の背中を見詰めていると母がくるりと振り向いた。 「あなたに自分の道を押し付けるのは、わがままだったって気付いたんだって」 母の目はいつも通り笑っていた。呆けた冗談を言う時と何も変わらない表情だった。 「そんなに口開けっ放しにしてるとよだれが垂れるわよ。みっともないから閉じなさい」 そう言った時には、母はもう洗い物の続きに没頭し始めていた。 俺はとりあえず開いた口を閉じて、Gジャンを着てしまうと、黙って家を出た。冷たく乾いた空気を吸い込みながら、俺は「自由」と言う言葉を、頭の中で何度も噛みしめた。染み出た味は間違えて虫を飲み込んでしまったような、強烈に苦いものだった。 俺はいくつか落としそうだった単位を、追試を受けて乗り越え、なんとか大学を卒業した。そして内定していたソフト会社へ就職した。その時会社に近いアパートも借りて、家を出た。家からも通えなくはなかったが、どうしても自分ひとりで生活をしたかった。それについて何か意見を言うものは誰も居なかった。父親は 「そうか」 とだけ言い、母親は 「まあもう子供じゃないんだしね」 とのんびりと答え、姉は 「ご飯とか大丈夫なの?」 と心配そうに言った。姉は俺と違って、誰に対しても思いやり深かった。 仕事は面白かった。百五十人人程度の中規模の会社だったが、大手企業の子会社だったから、特に倒産等に怯える必要は無かった。社内の人たちも概ね親切で、嫌な奴だと思うような人間は、見あたらなかった。 先輩に教えられながら、与えられた社内のマニュアルを読み込み、仕事の仕方を覚えていく。(こんなトラブルがあった時にはこう対応せよ)残業は多かったが、パソコンに向かって、システムを構築していく過程に、俺は始めのうちこそ没頭した。入社して三年が経つ頃には主任に昇格していた。 しかし慣れればどの仕事も同じことだった。真剣になるほどではない。こなしていれば給料は入ってくるし、大抵のことはうまくいくのだ。 就職してからはほとんど実家には帰らなかった。必要がなければ電話さえしなかった。残業でアパートに居る時間はあまりなかったし、仕事を終えても、同僚達と飲みに出かけることがほとんどだったから、「寂しい」等と思う暇もなかった。 ある日、客先との打ち合わせを終えて、駅までの道をショートカットする路地を歩いていた。路地は車一台が通れる程度の広さで、小さな卸業の会社や、昔からある店などが並ぶ、静かな通りだった。アスファルトに水を打っている花屋の前を通ると、薔薇や百合の香りがふんわりと漂ってきた。思わず足を止めて、その店先に並ぶ花を眺める。駅前にあるような豪勢な花屋と違って、品数も薄く、店も洗練されてはいない。しかし野の花を切ってきましたとでも言う様な、自然な風情が心を揺さぶった。 「あれ、洋一君かい?」 背後から突然声をかけられて、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。呆けて花に見とれているスーツ姿の男に声をかけるだけでも驚きだが、名前を呼ばれるのは尋常じゃない。振り返るとそこには、見覚えのある作業着姿の男が立っていた。 「あ……相澤さん……?」 記憶のそこから沸きあがってきた名前を口にしてみる。確か父と一緒によく現場に出ていた、職人の相澤さんではないか? 「おお、覚えていてくれたか。最後に会ったのは君が高校卒業する年だったからな。忘れられたかと思ったよ」 ニコニコと日焼けした顔をほころばせて、相澤さんは俺を眺めている。 「スーツなんか着ちゃって、立派になったなあ。でもその童顔は変わらんなあ」 相澤さんの声は、この路地中に響くのではないかと思うほどだった。1メートルも離れていない場所に立っている俺は、耳がつんざけそうだった。身長は170センチないだろうが、でっぷりとしたお腹をベルトで押さえつけていて、この身体ならこの声も出るだろうと溜息をつきそうになる。 「相澤さんの所はこの近くでしたっけ」 俺はなるべく小声でそう聞いた。俺が小声で話す事で自分の並外れた声量に気付いて欲しかったからだ。 「ああ、この花屋の隣の隣。ほれ、あそこ」 残念ながら相澤さんに俺の思いは通じなかったらしく、大声のまま指をさしている。見れば花屋の二軒先に、古い二階建てのビルが見えており、そこには「相澤電業」と言う粗末な看板が掲げられていた。「業」の字の左半分は、かすれて消えかけている。 「ちょっと時間あるかい?お茶でも飲んで行きなよ」 相澤さんは俺が何も答えないうちに、俺の右腕を捕まえて相澤電業に向かってのしのし歩き始めた。のしのし。恐竜が来たと子供が泣いてもおかしくない。俺は苦笑した。 古い建物の中に入ると微かにカビの匂いがする。実家と同じように、一階を仕事場、二階を住まいにしているようだ。 所狭しと置かれた電材をよけながら、奥にある打ち合わせ机にたどり着くと、相澤さんは部屋の奥に向かって 「おーい、ちょっとお茶入れて! お客さんだから!」 と怒鳴った。 「はあい」 奥から声がして、さっと扉が開くと、小柄で肉付きのいい五十代くらいの女性が顔を出した。相澤さんの奥さんらしい。一緒に暮らしていると体つきまで似るのだろうかと吹きだしたくなるほど、二人は良く似た雰囲気をもっていた。 「松田さんとこの息子さんだよ。お前は会った事ねえよな」 相澤さんが女性にそう言うと、その女性はぱっと感じのいい笑顔を浮かべた。 「あらあらそうだったの。お父さんにはいつもお世話になってます」 丁寧にお辞儀をされて、俺は戸惑ったが、かろうじて会釈を返す事はできた。 「今なにやってんの? 営業かい?」 相澤さんはセブンスターに火をつけながらニコニコと問い掛けてきた。 「あ、吸うかい?」 相澤さんが差し向けたセブンスターの箱を目顔で断りながら、 「ソフトウエアの開発やってるんです」 と答えると、相澤さんは笑顔のままうなずいた。 「そうかそうか。洋一君は頭がいいからなあ」 「いや、頭は関係ないですよ。大学卒業できなかったらどうしようって三月は絶望してた口ですから」 俺の言葉に、相澤さんは弾けるような大笑いをした。ビルが崩壊するかと思うほどの声だった。 「いやあ、正直親父さんのあと継ぐんだとばかり思ってたからね。まあ電気設備に湯水のように金かける時代じゃあねえから、電工やっててももうかりゃしねえよな」 奥さんが入ってきて、湯飲みを二つ机に置いた。俺の前に置かれたのは、白くて丸い繊細な陶磁器だったが、相澤さんのは、すしやのアガリのような、分厚い湯のみだった。それでも相澤さんの手に握られてしまうと、貧弱で今にも割れそうに見えた。 親父の手も、あんな風だったな。 ふとそんな事を思う。まるでそれ自体が工具であるかのように、鍛えられた頑丈な手の平。なのに指先は細かい配線をさせれば、配線ミスはもとより、配線処理までぬかりがない器用さだった。 「うちも多分、俺でおしまいだ。うちは息子いねえし、娘婿迎えてまで続けるまでもないからなあ」 相澤さんの声がふと小さくなった。思わず相澤さんの顔を見上げると、窓の外を眺めていた。口元からは笑顔が消えていた。 「俺達が若い頃はさ、朝から晩まで真っ黒になって働いて、それが全てだった。そうやって生活する事で精一杯だったけど、でも、それだけでこの仕事続けてきたわけじゃねえ」 相澤さんの声は低く、けれど、まっすぐに俺に向かって飛んできた。俺に向かって吐き出された言葉でないことは、相澤さんの目を見ていれば分かった。相澤さんは目に見えない暗闇に向かって何かを吐き出そうとしている。それでも俺は、向かい風がきつくて呼吸が出来ないような、妙な感覚を覚えてしまう。 俺は思わず肩で大きく息を吸って、額ににじみ出た汗を手のひらでおさえた。相澤さんはそんな俺には目も移さずに言葉をつないだ。 「俺のこの腕が、このプラントを作ってるんだって言うプライドがあるんだよ。俺には学歴なんかねえ。中学出て、すぐ職人になったんだ。電気の事なんか、中学で勉強する理科くらいしか知らなかった。だから朝五時に起きて現場に出て、クタクタになるまで働いて、帰ってきたら、電気理論の本開いてな。そうやって自分の身体を全部使って、勉強してさ、ひとり立ちしてさ。一流大学出た青っ白い奴らが書いた図面見て、あーでもねえこーでもねえって文句言ってよ」 相澤さんの喉がゴクリと渇いた音を立てる。俺は息苦しくてネクタイの結び目に思わず手をやる。父親から似たような話を聞いたときには「年寄りの苦労話とお説教かよ。うんざりだな」と、影で毒づいたものだった。しかし今の俺にはそんなことを思う余裕はなかった。相澤さんのがっしりとした肩のシルエットが、強い語調に似合わず、今にも解け落ちてしまいそうに思えてならなかった。 「現場知らねえ奴らになんか任せておけるかよ。俺は学歴じゃ負けても、この腕と、心意気だけは負けねえ。仕事じゃ負けねえって思ってたよ。今でもそう思ってる。でもさ、世の中は、結局学歴のあるもんが、弱いもんを踏みつけながら生活してんのよ。真っ先にやられるのは俺達みたいな、なんの後ろ盾もねえ、立場の弱い人間だ。倒産するような会社運営の方法を改めないお前らが悪いんだと、せせら笑うんだよ、奴らはな。でかい組織に組み込まれて、一人で仕事したこともねえ甘っちょろい奴らにそんな事言われたかねえよ。受験に勝利、一流企業に合格、だからなんだってんだ。奴らなんのために勉強したんだ。末端で苦しんでる人間を幸せにしようなんて言う気持ちなんか誰も持ってねえ。みんな自分さえよければいいって、それだけなんだ。自分の腕で作ったものに、喜びなんか感じちゃいねえ。プラモデルいじってる程度の気持ちで会社から金もらって、何となく生きてる奴らが多い。ひでえ世の中だ」 相澤さんはそこまで一気に話すと、疲れたように、パイプ椅子の背もたれに身体を預けた。 「ああ悪いなあ、なんだか俺の愚痴聞かせちゃって」 相澤さんはにっこり笑ってやっと俺の顔を見た。俺は首を横に振って、微笑んだ。冷たい空気に触れたいと、切実に思う。何かが俺を火照らせていて、思考能力を奪われている。 「俺だってさ。もう諦めちゃいるけど、やっぱりこの会社が無くなるのは寂しいんだよ」 相澤さんは笑ったままそう言った。 「だって俺の命だからな。命がけで守ってきた会社だからな」 親父の命。実家の仕事場で、うつむいてはんだ付けをしている父の姿がよぎった。それは父でありながら、父ではない、一人の男の姿だった。 相澤さんと会ったその数日後。朝会社へ行くと、益田部長がフロアのドアの前に仁王立ちになっていた。 「おはようございます」 と、挨拶して通り過ぎようとすると、益田部長は厳しい口調で 「お前、携帯電話の電源を何故オフにしている?」 と、俺を遮った。 携帯電話?慌てて胸ポケットを探り、携帯電話を取り出す。電源はオフ。ここのところ多忙で寝不足気味だった俺は、睡眠を邪魔されたくないと夜の十時頃に携帯の電源を切ってベッドへ入ったのだった。そのまま電源を入れ忘れていた。 「すみません」 俺は携帯の電源を入れるボタンを押しながら謝る。そして頭が混乱する。携帯がつながらないことを責められる。何かが起こったと言うことか。 「Nビルの防犯用の制御装置、お前が責任者だろう?」 益田部長の硬い表情に、俺はさっと背筋が冷たくなった。何かが起きた。しかも簡単に解決できることではない何かが。 「何かあったんでしょうか」 俺は益田部長の鼻の辺りを見つめて聞いた。フロアにいる数人の社員がこちらを伺っているのがわかる。 「プログラムの誤動作で、防犯シャッターがいきなり落ちてきた。警備員が一人怪我をしている」 人身事故。俺は鞄を取り落としそうになった。思わずぐっと手を握りしめて何か言わなければと思う。 「立ち上げ作業は山本が行って……。問題なかったと報告受けていますが……」 俺の言葉の途中で益田部長が溜息をついた。 「お前このプロジェクトの責任者じゃなかったか? お前の目で最終のチェックをしなかったのか?」 「それは……今までもやったことのある仕事ですし」 「お前それでも技術者か? こんな簡単なバグも見つからないようなチェックの仕方で、引渡しの書類に認印もらって金請求するのか? その挙句部下の責任にするつもりなのか? 」 人のよさそうなNビルの電気主任技術者の顔が目に浮かぶ。何故?何故?何度も作ってきた、間違いようのないソフトじゃないのか?山本はどこにいるんだ?俺は何を間違えた?頭の中が真っ白になるとはこのことだった。何かを判断できる状況ではなかった。 「すぐNビルへ行け! 山下本部長と矢島課長がもう行っている!」 益田部長の怒鳴り声に飛び上がり、俺は慌てて議事録やデータの入ったCDを探すために資料棚の下へ走った。 益田部長の罵倒する声がまだ耳元に響いていたが、もう何を言っているのかも分からない。喉が渇いている。カラカラになった体から、昨夜飲んだ酒も一気に蒸発していくようだった。 Nビルの管理事務所に入ると、山下本部長と矢島課長がひたすら頭を下げながら、システムの説明をしていた。 「おたくにお願いをして、こんなことが起きるなんて思っていませんでしたよ」 いつも人懐っこい笑顔で迎えてくれた、Nビルの電気主任技術者が、怒りを抑えたように静かに言った。いつもの微笑みは勿論ない。 「本当に申しわけございません。たくさんのお仕事を頂いていながら……このような単純なミスを」 矢島課長がまた頭を下げる。 「単純なミス、ですね確かに。けれど人の命に関わることじゃないですか。そこがまず一番大切なことじゃないですか。なのに何故チェックし切れなかったんですか?」 「……返す言葉がございません」 山下本部長がうめくように答える。俺はその場からそっと逃げ出してしまいたかった。 「松田さん、遅かったじゃないか」 声をかけてきたのは、電気主任技術者だった。俺は黙って頭を下げるほかになかった。 「私は松田さんを信用してましたよ。残念です」 静かな声は俺の心臓をえぐるように飛び込んできて、ずんずんと鈍い音を立てながら体中を駆け巡っていった。 「申しわけ、ありません」 俺は消え入りそうな声でそう言って、後は彼の目を見ることすら出来なかった。 「山下本部長、今後のおたくとの取引はよく検討させてもらいますよ。とにかく今は設備の復旧と、必要な書類作成を早急にお願いします」 それまで黙っていたNビル側の部長が冷たい声できっぱりとそう言うのが聞こえた。 「直すところは全て直す。賠償金など細かいことは後ほど打ち合わせをしましょう」 部長の声は乾いていて、感情のかけらも感じられなかった。 「他の打ち合わせがありますので、私はこの辺で失礼します」 追いすがる言葉さえ許さない断固とした調子で、部長は事務所から出て行った。山下本部長がかろうじてその後を追っていく。俺は凍りついたようにその場を動けなかった。 課長の責める言葉が耳を通り過ぎていく。 職人達が新しい制御盤の配線を変えているのを見る。 俺は一人パソコンに向かい、データの収集を始める。 結局警備員は右足の骨折で全治2ヶ月と診断された。重いシャッターが頭を直撃していたら死亡事故にもなりかねない。警備員のお見舞いとお詫びは益田部長がまず行ってくれることになったため、俺はとにかく設備の復旧に勤めることになった。 ソフトの変更に伴って、ハード側にも変更が必要であることがわかったため、急遽工事業者を呼び寄せて、配線変更など工事を平行して行ってもらっていた。 何がどう間違っているのか。何がいけなかったのか。混乱する頭の中を整理しながら、必死にパソコンのキーを叩く。昼を告げるチャイムが鳴って、その場に居る全員が昼食をとるために出て行っても、俺は設備を離れられなかった。正確には時間の経緯など感じる余裕もなかった。尿意さえ感じなかった。節電の為に蛍光灯を切られた薄暗い監視室の中で、俺は点滅するラダーの列に目を凝らしながら、チェックをかけ続けた。 「おい、兄ちゃん」 背後に人の気配がした。振り返ると、先ほどまで盤配線のチェックをしていた四十代半ばと思われる職人が立っていた。細身で背が高く、黒いセルフレームのメガネをかけている。 何か文句を言われるのかも知れない。そう思った。この事故がなければ、職人達は今日ここへ呼び寄せられる事はなかったのだ。無駄な儲からない仕事増やしやがって、くらい言われても仕方が無い。 「これ飲めよ」 職人は缶コーヒーを俺の座っているデスクの上に置いた。 「え」 俺は思わずぽかんとして職人の顔を見つめた。 「そんな根つめると、また間違うぜ」 職人はそう言って、にっと歯を見せた。気がつくと、その背後には、彼と一緒に仕事をしていた職人たちが、引き寄せてきたパイプ椅子に座って、笑いながらこちらを見ているのだった。 「すみません」 俺は思わずうめくようにつぶやいた。顔が上気しているのが自分でもよくわかる。 「人間のやることだ。間違いくらいあるだろうさ。こんなの俺ら慣れっこだしなあ」 後ろに居た、年かさの職人が笑いながらそう言った。頭はすっかり禿げ上がっている。 「まあ人身事故は痛いけどなあ。幸い最悪の事態にはならなかったわけだし」 コーヒーを置いてくれた職人が頷きながらそう言うと、後ろの太った職人が 「こんな経験したからにゃ、兄ちゃん、きっといい仕事できるようになるぜ」 と笑いかけてきた。 「そうそう、大丈夫だよ、工事の方は任せとけ。きっちり仕上げるからよ」 年かさの職人が煙草をふかしながら明るく言った。 俺は喉にぐっとこみ上げるものを飲み込んだ。今日の仕事が明日の生活を支えることになっている彼らだ。本来なら無駄な仕事はごめんだと言いたいはずなのだ。それは父親を見ていた俺には、嫌と言うほどよく分かっている。なのに何故、俺を励ましてくれるんだ?今日会ったばかりの、事故の原因を作ったこの俺を。 俺は何も言えないまま、缶コーヒーをぐっとあおった。職人達の姿が、父や相澤さんにだぶって見えて仕方がなかった。 事故から一ヶ月が過ぎようとしていた。ソフトの修正を終え、足りなかったハードを追加して、設備は何とか運用できるものに仕上げた。Nビルの電気主任技術者は半月ほどまともに顔も合わせてくれなかったが、毎日のように現場に通いつめるうち、ここのところやっと自分から話しかけてくれるまでになった。仕事も今までの経緯から簡単に切り離せる状態でなかったこともあって、何とか取引を継続できることになり、あとは怪我をした警備員が完治すれば、という状況だった。 ある夜、残業者の数もまばらになってから、俺は課長の机の前に立った。 「課長、俺、退職させてもらいたいと思っています」 俺がそう言うと、課長は驚いたように顔を上げた。 「どうしたんだね。Nビルの件はだいぶ落ち着いてきたし、君自身も始末書を作成した。それ以上の責任を求めるつもりは、会社としてはないんだが」 「いえ、それは……その理由ではないんです」 「じゃあどうしたんだ?」 俺は一瞬躊躇したが、ぐっと腹に力を込めて言った。 「自分の城を持って、自分のやり方で、仕事をしていきたいんです。夢を実現させたいと思っています」 課長は呆然と俺の顔を見ていた。 「起業かね?」 「いえ、そうではないのですが」 曖昧に答えて、俺はくるりと背を向けた。俺は実家が電気工事業者であることを誰にも言わなかった。その跡を継ぐといって、この会社にコネを作って辞めるのは気がひけた。課長が何か言いかけたが、構わずドアに向かって歩き出した。 「二ヵ月後には辞めさせていただくつもりでいます。それまでに引継ぎは終わらせますので」 課長を振り返り、そう付け加えると、会社を出た。身体がすっと軽くなるのを感じた。 「ただいま」 俺はそう言って実家の仕事場へと入っていった。 「あれ?お前どうした?」 仕事場で伝票を書いていた父親が驚いたように顔をあげた。 「ああ親父、話があってきた」 「話?」 怪訝そうな顔で、ボールペンを持ち上げたまま、メガネを外して俺を見る。 「親父、俺をこの会社で働かせてください」 俺は父の顔をまっすぐに見詰めながらそう言った。 「何?」 父親は椅子から立ち上がった。 「ここで働かせて欲しい。本気で働きます。お願いします」 俺は頭を下げた。殴られても絶対に引かない。帰れといわれても帰らない。俺はそう決めていた。 「……一体どうしたって言うんだ」 思いのほか柔らかい声が降ってきた。俺は顔をあげた。 「真剣に仕事をするって事を、親父に教えて欲しい。自分の仕事にプライドを持ちたい。そして、できれば、この会社を、もっと大きくしたい。ハード設計もソフト設計もできるような会社にしたい。俺、今のままじゃ駄目だ。親父、俺を育ててくれないか」 父はそっと椅子に座った。そして顎の下で手を組んで、じっと俺を見詰めた。 「俺は容赦しないぞ。根を上げて逃げたら勘当だ。職人放り出して逃げられるほど、経営ってのは楽なことじゃないからな。やれるか?」 「はい。覚悟してきました」 俺は父の目を見つめ返した。対等な男同士になって初めて父の思いを知った。父の乗り越えてきた修羅場を思う時、俺は胸が痛んだ。父の仕事をやり遂げた清々しさを思う時、俺は心から羨ましいと思った。俺には何かが足りない。足りないけれど、見つけたい。何故父が苦しいこの道を歩き続けてきたのか、今なら分かる。分かる気がする。 「母さんに会って来いよ。久しぶりだからな」 父はふっと表情を和らげてそう言った。俺は頷いて、仕事場から二階へつながるドアをあけた。 暗い階段の先に、暖かな居間の光が漏れている。俺は手探りでも、上りつめてみせる。何となく生きていくのはまっぴらだ。 俺は光に向かって、ぎしぎしと音を立てながら階段を上っていった。 |